yasui2226のブログ

自作の小説を置いてます

雲の先にあなたは

習作2 ・女性視点での恋愛話
    ・情景描写と心情の紐付け意識
    ・雨と供に、過去を追う男と過去を塗り替える女の話です


 

 雨のよく降る日だった。彼は今日も私に笑いかけてくる。私は途端に恥ずかしくなったが彼の方へ微笑み返した。とても、紅潮していたと思う。

 

 

もう何日もこんな朝が続いている。一両編成で逃げ場のない電車の中で彼と、私。他の乗客もいる気がするけど正直、覚えてない。というかこっちの方が普通。彼の方が異常。毎朝乗ってる電車の中の同じメンツでさえ私は、私たちはしっかりと見えていない。それが日常だった、けど。

いつの間にかこの『挨拶』が日常の一部になってしまっていた。キッカケは何だったろうか。そう、確か彼が私の落とした荷物(父さんは時々無茶をさせる)を拾ってくれたのだった。その時に自己紹介をしたんだ。

 

「カモガワさん……ですか。よくこの時間乗ってますよね。この辺りですか?あ、俺は堂島です。堂島智樹」

 

荷物に縫い付けられた刺繍を読んで尋ねたのだろう。父は年甲斐もなく自身の研究所に“カモガワカズキ研究所”と命名している。我が親ながら、毎度溜め息が出る。

 

「鴨川唯っていいます。父の仕事の手伝いでよく使うんですよ。朝でも人がまばらで乗り心地が良いですしね」

 

「へぇ、手伝いで。あぁもう降りないと。また会いましょう」

 

そう言って微笑むと彼は開いた扉に吸い込まれるように歩いて行く。去っていく彼の背中は直ぐに雨に沈んでいった。

 

 

 

窓に打ち付けられる音が大きくなってきた。振り返ると真円に広がる水の粒が川みたいにすべり落ちてる。これじゃあ降りてもひどいな、傘あったかな? 靴もヤバイかも。あの道舗装されてないからなぁ。

毎度の事ながらあんな所に研究所を建てた父さんを呪う。小雨だからって油断してた私も悪かったけど。

なんて事を考えてたらもう、蝮山東駅だった。彼はいつもここで降りる。だから、私の夢見るお姫様気分もここでおしまい。後はただの研究補助員という肩書きが残るだけだ。一見、大層な肩書きだけど要は研究所のお手伝いさん。故郷へ帰ってきて、毎日暇している私に父さんが持ってきた仕事だ。

 

ふと彼の方を見ると動作がひどく遅い。そんなペースじゃ扉に間に合わないよ?

と思っていたら、やっぱり車両の向こうの扉は彼が辿り着く前にピタリと閉じてしまった。彼は頭をぽりぽりと引っ掻くと、はにかむ。途方に暮れてるみたい。だけど分かった。あれはフリだ、建前。他人の目を気にして取り敢えずやっておく演技。

経験があるとよく分かる、えー唯ちゃんまたぁ? しょうがないなぁ。全員が台本を知り尽くした役者さん。過ごしやすい空気を作って、余計な事を黙ってるのは暗黙の了解。

打算と狡猾があの仮面の下で笑ってる。

見ていると、自分の席に戻ると思いきや私の方に歩いて来る。慌てて目を伏せた、気づかれてたかも……。彼は私の目の前に座った。

さっきまであんな事を考えていた手前、すごく気まずい。思わず下を向いてしまった。彼はふっと声を漏らして私に語りかけた。

 

「俺、この次で良い喫茶店知ってるんです。次で一緒に降りましょう」

 

ニコニコした顔で誘ってくる様子に思わず頷いてしまった。まぁ、いいか。まるっきり知らない訳でもないし、何より彼の正体を知りたかった。

 

 

 

駅に降りると外は土砂降りだった。取り敢えず父親に休む旨を伝えなくてはと電話をしておく。その間に彼は可笑しそうに私の方を見たり、ふっと雨を見つめたりしていた。見ているとパッと私の方を向いて手招きしてそのまま改札へ歩き出した。

 

「傘、あります?無いなら俺、傘持ってるので」

 

どうやら一緒に入っていけ、という事らしい。私も社会人の端くれ、いつもなら持ってくるんだけどな。油断というのはここでも私に牙をむくらしい。

 

「じゃあ、頼もうかな。お願いします」

 

彼はニッコリと笑うと私を迎え入れた。計らずも彼の腕が肩に触れる。そこから彼の熱が、鼓動がまっすぐに伝わってくる。少しドキドキしてしまう。しばらくぼうっとしてしまったようだ、何か言ったのを聞き逃してしまった。

 

「ごめんなさい! 何か、言いました?」

 

慌てて聞き直す。振り返ってみると駅はもう見えない。考えている間にかなり進んでしまったらしい。そんな私に彼は答える。

 

「傘の中ってさ、独特だよね。それだけで外と切り離されてる感覚ある。見方を変えたら檻の中にいるみたいでさ。」

 

「悪趣味だなぁ。じゃあ私たちって、今は二人とも外から隔離された檻の中、ですか?」

 

目を細めて笑う彼の微笑みはまっすぐに私に向けられていた。

 

「さあここだよ。結構いい雰囲気なんだ。マスターもいい人だし」

 

彼が指差す先に喫茶店はあった。落ち着いた雰囲気の外観で趣味の良さが感じられる。駅から歩いて五分ほど経ったろうか、確かにとても近い。看板にはRound leaf・hollyとある。店名だろうか、少し変わっているなと思った。

中に入ると、外の雨音から切り替わるように、ゆったりとしたオーケストラが流れている。

彼はかなりの常連らしく、店主と軽く挨拶を交わすと慣れた様子で奥の窓側の席に座った。私も彼に続き向かいに座る。間のテーブルが意外なほど小さく、頑張って顔を突き出せば彼の鼻先に触れられそうだ。

 

店主が注文を聞いて去った後、私たちの間にしばらくの沈黙が生まれた。彼はじっと音楽に耳を傾けているようだ。私はしっとりと雨を吸い、気持ち重くなった髪を後ろ手で結びながら外の雨を見ていた。

程なくして、店主が注文通りにコーヒーを淹れて持って来た。私は少し気になって店主に店名の由来を聞いてみた。

 

「あぁ、うちの店名かい? そんな大層な理由じゃあないよ。ラウンドリーフ・ホーリーっていうのはクロガネモチって木の別名でねぇ。私はこの木が好きなんだ。何よりこの木は『カネモチ』って語呂合わせで、縁起がいいんだよ。現金なことだが、そういう願掛けも込めてのRoundleaf・hollyなのさ」

 

そう言って店主は店のちょっとした庭の方を指差す。。こんもりと刈り込まれた樹形、その上に赤に濡れた実がちょこんと載っている。クロガネモチは庭の中心を占め、主役然としていた。

 

「今はあいにくの雨だが、あの赤い実がいいんだ。あそこによく鳥なんかが実を取りに来てなぁ。見ていて飽きないよ。手入れも楽で土に植えてるから水やりなんて必要ないし、鉢植えを枯らすような俺には非常にありがたい」

 

そう締めて、店主は仕事に戻った。どうやら彼も店主の話を聞いていたようだった。自然な動作で口を開きスッと呟く。

 

「俺もあの木好きなんだ。マスターとは違う意味でだけどね」

 

意味がよく分からなくてもっとよく聞こうと口を動かすが彼の声に遮られた。

 

「そういえば、鴨川さんはコーヒーに何入れるの?俺は砂糖だけなんだけど、ミルクが欲しければマスターに頼むよ」

 

「大丈夫ですよ、私も砂糖だけなんです。いつもミルクを入れてそれに慣れてると、ない時はコーヒーフレッシュを使わなくちゃいけないでしょ?

私、テレビでコーヒーフレッシュは油みたいなものって知ってからあんまり飲みたくないんです」

 

「へぇ、健康志向なんだね」

 

「ただ、気持ち悪いってだけですよ。そこまで気にしてるわけじゃ無いです。コーヒーにそれしか入れるものがなくて、ダメならブラックしか飲めないって言われたら喜んで使いますよ。苦いのはもっと嫌なんです」

 

フフッと彼は笑う。つられて私も微笑む。先程から何度も見ているが、彼は本当にいい笑い方をする。ハッキリと開いた目が笑うたびにくしゃっと潰れて口は下に緩やかなカーブを描く。

とても安心する、無邪気な子供を連想するような笑顔だった。あるいはそれは、通とおるの笑い方に似ているからかもしれなかった。

話していると店主がコーヒーを持ってきた。口をつけると芳ばしい匂いが鼻を通り抜ける。直後に舌の上を程よい苦味が流れる。私は暫く喫茶店の本格コーヒーというものを堪能した。落ち着いたところで顔を上げると彼は何か物悲しそうな顔でコーヒーの入ったカップを見つめている。顔の半分を這う影は外からの淡い光ではとても照らしきれていなかった。

 

「何かあったんですか?」

 

彼はハッとした様に顔を上げた。私の目を暫く凝視するとやがて照れ隠しをするかのようにはにかんだ。

 

「いや何でもないんだけど……。でも、そう。折角美味しそうにコーヒー飲んでたのに俺のせいで嫌な空気になったね」

 

「そんなこと」と、否定するが彼は構わず続ける。不思議と影は濃くなったように思えた。

 

「俺、三年前に恋人を失くしてるんだ。今日みたいなよく雨の降る日だった。雨を眺めてたら段々思い出してくる……。」

 

彼は多くを語らない。同じような経験があったためかその胸中はよく分かった。この喪失感を共有しようとは思わない。

切ないながらも彼との大切な記憶だ。誰かに話してしまう事で心からこぼれ落ちて無くなってしまうような、そんな気がした。多分、怖かったのだと思う。

 

 

「そういえば、どうして私をここに?」

 

ただお茶をしに来たわけでは無いんでしょう? 話題を変えようと少し意地悪く付け加えた。短い時間ながら私たちの距離感は大分縮まっていた。

 

「うん、そうだね。流石にそんな理由じゃ誘えないよね」

 

ふっと言葉を切って静かにコーヒーを飲む彼。しばらくの沈黙、彼はなかなか話そうとしない。あれ? 本当にそれだけなの。美味しいコーヒーを世に伝えるべく、俺は貴女をここへ?

 

「興味があったんだ」

 

え? 思わず聞き返してしまう。ただ同じ電車に乗ってただけで? 疑問だらけの私をいたずらっぽい目で見つめながら彼は続けた。

 

「きっかけは……そう、カバンだったかなトートバッグ。ほら梨の絵が書いてあってローマ字で“青リンゴではありません”っていうプリントの。表皮のブツブツの質感も細かく再現されててさちょっと笑ったんだよね」

 

「それで君の顔を覚えた。その二、三日後かな、今度の君は俺の持ってる柄のTシャツを着てて。バンドの薩摩ポテト、それのオリジナルデザインを持ってる人なんて見かけないから。趣味が似てるのかなと思って」

 

彼の話で私もおぼろげながらその時のことを思い出してきた。そうだ、あの時は残暑厳しい夏の終わり。Tシャツの上に一枚羽織る程度の格好だった。彼に初めて会ったのはそのくらいの頃だったか。

 

「あぁ、そういえばそんな事も……。よく友達に言われてたなぁ、ユイって感性がズレてるねって。自分ではいいと思ってるんだけど」

 

カップに口をつけながら上目遣いに彼を見る。彼の言うとおり、このバンドの理解者はなかなか少ない。だからという訳ではないが、私はなんとなく彼に惹かれ始めていた。

 

「雨の音って落ち着くんだ」

 

彼は静かに呟いた、私はそっと耳を傾ける。目は自然、粛々と雨の降る外へ向いていた。

 

「昼夜構わず地面を打つ音は、穴に落ちたような静けさも、頭に響くざわめきも変えてくれるんだ、同じに。俺は包まれるんだよ、あの音、沈静と整律が広がるあの世界に」

 

「だけど、同時に雨は色を奪う。街は色彩を欠いて空は鈍く沈む。

 三年前のあの日から、俺の景色もそうだった。皮肉にも雨で灰に沈んだ景色は俺の心によく馴染んだ。だけど、それはあまりにも暗い穏やかな月日だった」

 

 私も、私も同じ道を通ってきた。通が病室で息を引き取ったあの雨の日以来、私の心は常にどんよりと曇りがかっていた。

いつのまにか私は、彼に強く共感していた。同じ境遇、避けられない辛い現実、辿り着いた同じ景色……。

 

「そんな時だ。色を、光を否定した俺の目に再び光が射した」

 

彼はスッと言葉を切ると私に正対した。私も目線を薄暗い外から戻して彼に向き合う。

 

「あの時間にもう一度戻りたい。どうかな、しばらくの間でもいい。俺と付き合ってくれないか」

 

その時の私には彼の提案はごく自然なものに思えた。彼に私を求める理由があるように私にもまた、彼を求める理由がある。

ただ、急な提案は私をひどく不安にさせた。

 

「ええ、そうね。とてもいい提案だと思う……。けど、少し時間をくれない?少しだけ、一日でいいの。今の気持ちを一度整理しておきたい」

 

「あぁ、構わない。結論が出た時に電話でもメールでもして伝えてくれ。

 いい時間だし、今日はここで別れようか」

 

そう言った彼は連絡先の載った紙を私に渡して、駅とは反対方向に歩いていった。私の分まで支払いを済ませていたのは最早言うまでもなかった。

時計を見ると十時半、今から行けば昼の仕事から始められる時間だった。

 

「はぁ、父さん怒らないといいけど……。バイトとはいえこんな休み方は有り得ないしなぁ」

 

暗雲としてきた私の心とは反対に空は青み始めてきていた。この分だと午後からは気持ちのいい空を迎えられるだろう。

 

 

 

仕事を終え、まだ研究があるからという父を残して私は先に帰宅。自室へ籠ると今日の堂島さんとの行動を一から思い返した。

 

「そういえば、クロガネモチってなんだったんだろ。別の意味で好きとか言ってたような」

 

取り敢えず、パソコンを開いてクロガネモチを調べる。何かあるとすれば花言葉ぐらいしか思いつかない。

 

「ええと、クロガネモチは。魅力、執着、仕掛け……。執着?あんまりいい言葉じゃないな」

 

思わず顔をしかめる。ただ、特にピンと来るものがない。これじゃないのかも、男の人が花言葉なんて知らないだろうし……。

フゥと一息ついてから私は椅子を引きずって窓辺に設置。カーテンを引くと吸い込まれるような夜空に星がよく映えていた。

 幼い頃か、誰かが雨上がりの星空は綺麗になると教えてくれた。雨によって大気中のチリやホコリが全部洗い流されるからだそうだ。

 

「通が居なくなって、もう一年か」

 

宮原通、私の元の彼氏。輝くヒマワリみたいな笑顔の彼は最後に私に顔を向けた時も笑っていた。そろそろ時期なのかもしれない。空を曇らせる塵芥、これを払わなければいつまでも天上飾る星々のシャンデリアなんてのは現れない。

考えるのは彼、堂島さんの横顔。喫茶店での彼の雨に対する眼差しはとても切なく、私の境遇とのリンクを感じるものだった。彼も私もまだ、過去から抜け出すことはできていないのだろう。新しい心に切り替わっていればどんなに楽だったろうか、残念ながら私はあの日から何も変わってなどいない。

だからこそ、私は自分が許せるだろうか。過去に通を愛したその心で、別の人にまた同じように愛を注ぐことを。半年前、一年前の私は許してくれるのか? そう問い詰めていくとやっぱり少しずつだけど自分は立ち直っていたんだなと気づく。

泣いてばかりで遂には田舎に逃げ込んだ一年前の私に比べれば今の私なんて一人で悲しい、悲しいと思い込んでいるだけの面倒くさい女なだけなのかもしれない。

 

昔の恋人か、そうだよね。言葉に表したらなんて中身のない言葉だろう。それまでの月日は、昔の一言に集約されてそこには無感情な事実が横たわるだけ。

結局、他人からすればそれまでの事。問題は片割れである私がどう思い続けるか、たったそれだけの事だったんだ。死んじゃったらそれ以上の進展も望めない。目的地を持たない一方通行な想いが彼の頭上を突き抜けていくだけ。

なんて事まで考えたら力が抜けてきた。呆気なかった。重く考える必要なんて無いんだ。私は新しく彼との恋愛を作っていけばいい。通との時間は私の、昔の大切な思い出として消えていくことは無いだろう。

そう結論付けると堂島さんにメールを打つ。返事は早く伝えておきたかった。

 

「堂島さん、今日の事すごく嬉しかったです。突然すぎて思わず家で考えるなんて言っちゃいましたけど、私でよければよろしくお願いします。

早速ですけど明日の昼にまた会いませんか? 昼休憩だけなので時間短いですがランチでも……。楽しい時間を過ごせる事を期待しています」

 

パッと打ってすぐに送ったけどなかなか返事は返ってこなかった。私が一人、焦りすぎていたのかもしれない。結局その日は、布団で目を閉じてからも彼からの返事は無かった。

 

 

 

翌朝、私は雨樋が流す水音に耳をすませていた。音はうねりを伴って大きくも小さくもなりながらゆっくりと絶え間なく私の中を通り抜けていく。薄暗い部屋の中で私は雨を体感していた。

しばらくそうしていたら昨夜、閉め切っていなかったカーテンの隙間から淡い光がこぼれた。布団から這い出るとサッと残りを開いて外に顔を覗かせる。

早朝から続く雨は変わらず降り続けているが、強い風でも吹いたのか雲が割れ、白い光が射すようになっていた。

水みたいに薄められた、白と灰のぼんやりと明るい空が私の心を溶かし出したようだった。

幾らか頭も冴え、昨日のメールの返事を確認する、来ていた。返信は短く簡潔にまとまっており駅まで迎えにいく旨が記されていた。私はふっと目を細めると母を手伝うため階下へ降りた。

彼について知りたい事が沢山ある、私について話したい事が沢山ある。窓を振り返ると白い雨筋の中に青空が垣間見えた。今日は良い日になりそうだった。

 

 

 

 

 

「へぇ、智樹さん株取引してるんだ、いつも何してるのかと思ってたんだけど」

 

昼、結局雨は止まずに勢いを増してアスファルトを叩いていた。私と智樹さんは個人経営のこじんまりとしたレストランに来ている。場所は蝮山駅のある通り。わざわざ私の職場近くまで来てくれた彼はゆったりとした様子で店内を見渡している。

 

「まぁ、俺の仕事なんてどうでもいいだろ。それよりこの店、君の行きつけなの?けっこう古めかしい感じだけど」

 

「父の行きつけで、私も好きな味なんだ。智樹さんにもここのハンバーグ食べてもらいたくて」

 

レストラン、ドミグラス。親子二代で経営されるこの店は頑固な父親と流行を追う息子が常に争っており、ごくたまに味に壮絶な変化があったりする。

 

「どうぞ、洋風ハンバーグ二つです。ここのソースが美味いですからね。では、ごゆっくり」

 

息子の方が料理を持ってきた。彼自慢の逸品なのだろう。早速ナイフを手に取る。

 

「うん、美味いねこれ。肉に例のおすすめソースがすごく合ってる。ここの看板メニュー?」

 

「そうだね。小さい頃からよくここに食べにきてたの、ここのお肉はさっきの人のお父さんがじっくり焼いてるみたいで。ほんと、美味しいよね」

 

肉とソースが鉄板の上で焦げる音が香ばしい。このソース、リンゴでも使っているのだろうか少しの酸味の後に心地いい旨味、甘味が溢れだす。

 

「それでね。メールでも伝えたけどやっぱり口で伝えた方がいいかなって」

 

智樹さんは私の話を察したのか食べる手を止める。つかの間、テーブルの上はジュウジュウという音だけになった。ひと呼吸おいて私は切り出す。事前に考えていたとはいえ、この事を他人に話したことはなかったので緊張した。

 

「智樹さんに告白された時、少し戸惑ったけど率直に嬉しいと思った。この人と付き合いたいって思ったの。本当だよ?でも返事は待ってほしいって言ったよね。その理由をこれから聞いて欲しい」

 

智樹さんはゆっくりと頷くと、ただ黙って座っている。私の言葉を待っているようだった。

 

「私も亡くしてるんだよ、恋人」

 

テーブルの上で組んだ手に注いでいた視線をチラリと智樹さんに移す。彼は別段驚いた様子も、ショックを受けた様子もなかった。とりあえずは安心して言葉を続ける。

 

「一年前の雨の日だった。宮原通って言ってね。笑顔の素敵な人だったなぁ」

 

話しているうちにまた、鮮明に思い出してきた。彼の笑顔はもう、私の記憶の中にしか存在しない。それが本当に彼のものかも、もう分からない。

 

 

 

彼との出会いは、七年前まで遡る。同じ学科の学生だった彼とは講義で度々隣の席だったことで知り合った。

 何回か話すうちに共通の趣味が見つかり、更によく話すようになった。私たちが恋人同士となるのは時間の問題だった。

七年の間、本当に色々あった。彼と遊びに行った遊園地は今でもいい思い出だし、日常の中の些細な喧嘩さえ今となっては……。

 今でもよく覚えているのは初めて二人で夏祭りに行った時だ。浴衣で待ち合わせて屋台を見て歩いて気になったところで遊ぶ。

金魚すくい、ヨーヨー釣りなんていつ振りだったろうか。焦って一つもすくえない私の代わりに通はいつも二つは必ず取ってくれた。金魚二匹の入ったビニールを渡されはしゃいでいた私に彼は呟く。

 

「唯は金魚すくいって好きか?」

 

動物愛護的な話だろうか、いつもとは毛色の違う彼の発言に不思議に思った。

 

「私はそれ自体っていうよりも、取った後の結果。要はこれだね。このビニールに入れられた物としてなら好きかな。浴衣に似合ういかにもって感じの綺麗さじゃない?」

 

金魚を持ち上げながら答える。祭の灯りに中の水が赤く煌めく。急に揺らされた金魚たちは落ち着きなく尾びれをヒラヒラ動かす。たったそれだけですごく幻想的だった。

 

「そうか、そんな捉え方もあるんだね。俺はどうしても屋台のおじさんが悪者に見えてしまってさ。意地でも多く取ろうと思うんだ。

でも、取ったやつは家に持って帰るだろ。そうすると金魚の死ぬ姿を俺が見ることになる。俺がどうしたって金魚すくいは心に咎めるんだ。案外、唯みたいに楽に構えてたほうがいいのかもなぁ」

 

そう言うと通は困ったように笑った。その寂しいような笑顔を変えて欲しくて彼の胸に顔を埋めた。幸せだった。彼の優しさに包まれてその時の私はとても満たされていた。

だけど、そんな時間は長くは続かない。世の常だと理解していても、いざ自分にそれが降りかかると弱いのが私だった。

彼の両親に挨拶に行ってすぐの頃。あまりにも急すぎた、きっと少しずつ彼自身も変化は感じていたのだろう。彼は医者にガンと診断された。残された時間などあってないようなもの、別れはすぐに訪れる。

 病室には彼と、家族。親しかった友人とそして私。通はそこまで喋るほうじゃなかったからか最後に遺したのは笑顔だけだった。

通が居なくなって通の家族は忘れてくれていいと言ったけど結局一年も引きずってきた。

そんな折にあなたに出会った。それで気づいたの、彼のことをいつまでも考えていても仕方ないって。

 

話し終えて再び正面を向く、彼はどこか悲しそうに笑っていた。彼の笑みは何を意味しているのだろう。意味深い目の陰りと優しい口元はいつもどこか懐古的、ここを見ている気がしない。そんな印象だ。

と、その微笑みのまま彼がそっと私の髪に手を伸ばした。頭頂から重力に従って下される彼の手。だけどそれは肩の上の辺りで不自然に止まってゆっくりと引かれていった。

 

「そうか、唯も大変だったんだね」

 

柔らかい声だった。つぶやくその笑みは暖く私を慰めていた。

レストランを出る時、智樹さんに今度の週末に出掛けないかと誘われた。首肯して行き先を聞くと彼はまた、あのいたずらっぽい顔をして答えた。

 

「着くまでは、教えられない。でもきっと驚くよ」

 

 

 

数週間後、私はいつも智樹さんの乗ってくる平坂駅に降り立った。ここで合流して何処かへ行くらしい。一応動きやすいジーパンに濃いめのジャケットを羽織ってきた。

空を見るとまた、雨。私たちが会う時はどうしてこうも雨ばかりなのだろう。小説を読むときにおいて雨は涙、冷たさの象徴であり寂しい時はいつもこの天気だ。

必ずしもそればかりでないことは分かっている。だけどイメージというものはなかなか頭から離れてはくれない。

 

「ごめん、待たせた?」

 

振り返ると智樹さんが肩を濡らして立っていた。大分急いできてくれたのだろうかジーンズの裾が濡れピットリと足のシルエットを形どっている。

 

「ううん、今来たところ。早速行こっか、このバス?」

 

密かに、人生で一回は言ってみたかったセリフだ。少し悦に入りながら智樹さんの誘導に従って駅から出るバスに乗った。

 

外ではまだポツポツと、雨がバスの屋根を叩いているけれど特別気になる程でもない。私は智樹さんの横の座席に収まり乗客の少ない車内でゆったり辺りを見回していた。

窓はどんどん知らない景色の方へすべっていく。平坂、蝮山東、蝮山、雨条川……。

見慣れない土地というものは目的地が楽しみになる反面、時に心細くなる時がある。私たち以外の最後の乗客が出ていき、バスは彼と私だけの空間になった。

大分自分たちの町から離れていたからか、センチメンタルになっていた私は彼に声をかけた。でも、智樹さんは反応してくれない。またあの、物思いにふけっているような遠い過去をじっと見つめているような、そんな顔だった。ちょっとイラっとして肩を揺する、やっと振り向いてくれた。

 

「まだ着かない? けっこう遠いところなの」

 

「しょうがないなぁ……じゃあヒントをあげようか。この雨条川の上流の方だよ、この雨は少し残念だけど大丈夫。ちゃんと見ることはできると思う」

 

困ったような笑顔を向けて幾らか喋ると、またすぐにあの雰囲気に戻ってしまった。

何?

私の相手も億劫になる程昔の彼女さんが大切なわけ?

今は私と過ごす時間でしょ。

昔のことは忘れて私の方を向いてよ。

一緒に今の思い出を作ろうよ。

心でいくら叫んでも実際の声には一言だってなりえない。この一年間で私も大分ズルくなった。行動こそ相手に合わせていても腹の中ではいくらでも相手を罵倒してる……。でも、今回に限ってはそれほど無茶なことは思っていないはず。だって私たちは恋人同士、その関係に昔の彼女を持ち出す彼の方がご法度だ。

 

「ねぇ、ねぇったら!」

 

再び彼を私の方に向き直させる、今あなたは私と一緒に居るんだ。当然、私の方を向く義務がある。

智樹さんの反応はひどく鈍いものだった。首をのっそりとこちらに回す、明らかにさっきより不機嫌。彼の時間を邪魔したから? 関係ない。今は私との時間だ、優先順位は私がトップ。

 

「何か話そ、せっかくのデートでしょ? 移動時間から思い出にしようよ」

 

ぼうっとした目で智樹さんはこちらを一瞥、くしゃっと微笑むと子供をあやすように、宥めるように言った。

 

「ごめん、今そんな気分じゃないんだ……。前にも言ったかな?こういう雨の日は」

 

また、そんな事言って……。結局私は敵わないのだろうか?死んでいった彼の元カノが彼にとっての最高の思い出である限り、私は常に二番手であり続けるのだろう。

何故ならそう、居なくなった人との思い出はそれ以上の進展もない代わりに後退も無いから。自分が愛した分だけ相手に染み込んでいく。返ってくる反応がないということはつまり、自分の気の済むまで相手を想い続けることができるという事でもある。

 

「分かってる、昔の彼女を思い出すんでしょう? でも分かってよ。今は私といるんだよ、私だけを見て欲しい。

最初は辛いと思うけど、智樹さんも過去と折り合いつけてよ、私もそうしたんだから。大丈夫、過去は無くならないよ。ずっと心に在り続けてくれる」

 

そう言っても以前、智樹さんは硬い表情を崩さない。そんな事を言っているうちにとうとう目的地に着いてしまった。話は一旦打ち切られる。

 

「ここだ、降りるよ。まだ少し歩くけど……。話しながら行こうか」

 

二人で傘をさし、舗装された道路を一歩ずつ進んでいく。靴が水溜まりに浸かってしまうなんて最悪だから。

 

「唯は俺にどうして欲しいんだ? 確かにさっきまでは俺の態度にも非があった、謝るよ。だから教えて欲しい、これからどうして行こうか?」

 

案外、素直に受け入れてくれたことにびっくりした。

 

「私も強く言いすぎた、ゴメンね。出来れば昔のことは考えず私と一緒に居て欲しかったけど……。いいや、私のことを見てくれていれば。ちゃんと分かるように私を愛して」

 

少し冷静に考えれば、すごく些細なことだったけど私たちは普通よりちょっとだけ一人の時間が長かったみたい。どうしても自分のペースでやろうとして相手を振り回してしまう……。

でも智樹さんは分かってくれた、その上で私をまた受け入れてくれた。胸にある、温かいような液体がジワジワと全身に広がっていく心地いい感覚だった。やっぱり私は智樹さんの事が好きなんだ。

反面、こんな自分が本当は毛嫌いするほど嫌だった。思えば通と付き合い始めたきっかけもこれだったのかもしれない。私はいつの間にか通の優しさに、誰かに愛されることに恋をしていたんだ。

分かった瞬間にひどく落胆した。私の目的は結局これだったのだろうか? 口では寂しいなんて言いながら結局は自分が優越感に浸るために恋愛を求めていた?  そんな筈ない、きっぱりと否定する自分の心の内にも何処か信じ切れていない所がある。

思わず自問自答を繰り返す。違う、そんな自己満足に私は満たされていたんじゃない。でも、どう思い直そうと自己嫌悪の念は中枢目指してゆっくり着実に蝕んでくる。

頭の中がぐるぐるしてもうどうにもならなくなったその時、右手がゴツゴツとした手でグッと握られた。

 

「これでいい?直球すぎる言葉は恥ずかしいから面と向かっては言えないけど」

 

ついさっきまで雨に降られていた手は冷たく湿っていたけれど、彼が重ねた手の平はとても温かくドクンドクンという血の拍動まで伝わってくる気がした。

雨で濡れたこの手も彼と繋がれば人肌の温もりを感じられる。

私が何を思っていようと彼が私を愛してくれているという事実は変わらない。それに経緯がどうあれ、今の私が彼を深く愛していることに変わりはない。

何を臆病になっていたのだろう。彼がこうして私を愛すと言ってくれているんだ、思いっきり甘えてしまっても何の問題もない。

気がつくと雨も上がっていた、智樹はすでに傘も畳んでいる。

 

「着いたよ、ここだ」

 

少し前を歩いて手を引いてくれていた智樹が小高い丘の上で立ち止まる。その景色は、すぐに私の目にもうつった。

 

「これは……ススキ原?すごい、町の近くにこんな所あったんだね」

 

視界いっぱいに広がったススキは先ほどまで降っていた雨露を存分に吸い、太く長い穂の先にポタポタと雫をたたえている。風に揺れる何十、何百のススキが一斉に動く様は落ち込んでいた気分を払拭する爽やかな風が目の前を通り過ぎていくようだった。

と、折りよく雲が引き、夕焼けが辺りを照らし出した。思わず感嘆の溜息が漏れる。

ススキ穂の白で埋め尽くされていた草原が赤く焼けた光とともにサーッと薄紅に輝き始めた。サワサワという音と一緒にこぼれる雫はあたかも地上に降る雨のよう。

雨雲の上で二人、何処までも続く夕焼けを見ているようだった。

しばらく私たちは何を言うこともなく、ただ目の前で過ぎゆく束の間の絶景を目で追った。

日も沈み、辺りに地の影が落ち始めた頃ポツリ、ポツリと智樹が話し始めた。

 

「こんな、美しい景色も消えて行く時はあっという間だ。唯、今日は色々ごめんな。

 俺、怖いし苦しいんだ。雨が降る度に彼女の顔が思い出される……けどこれはいつまで続いてくれるんだろうか?  いつか必ず記憶が薄れて消えていってしまうと思うと俺は」

 

「掴み所のない雲、かき集めても消えて行く霧。朧げな輪郭を必死に頭で繋いでもはっきりした像にならない。顔を、声を忘れても彼女と共有してきた時間、心の温もりは失くしてないつもりだ」

 

「……不思議だね。君といるとまたあの頃の、温かさが戻ってくるようだ」

 

そう言うと智樹は唐突に、私の体を二本の逞しい腕で絡め取った。そのまま体を押し当てられる。ゴツゴツと無骨な胸板だった。雨にぬれた服の上から彼の温もりが直に送りこまれる。

いつのまにか澄んだ星空が私たちを見下ろしていた。

 

 

 

バサ、バサと足元に黒い髪の束が落ちていく。ゆったりとしたミュージックの下、私は美容院にいた。

外を見るとぼんやりとした曇り。明確に晴れているわけではないけど雨が降るにはもう一つ、そんな感じだ。

ススキ原のデートからしばらく経つ。ちょっとしたギクシャクがあったからか、最近彼の様子が普通じゃない気がする。

前にも増して上の空だったり、私を見る時まるで別人を見るようだったりだ。

酷かったのは昨日、一緒にランチを食べてるとき。ずっと上の空だと思ったら突然、私の知らない映画の話を始めた。

『ゴミ山の僕から君へ』という廃棄されたアンドロイドがある女性に恋をする話らしい。

明らかに私と誰かを混同している。

また、彼女なのだろうか。

彼の前でもいい、なりふり構わず耳を塞ぎたかった。

これほどまで智樹は彼女と深く結びついていたのか。

そのまま特に別れも告げないままなし崩し的にトボトボと帰ることになった。

そんな経緯もあり私は切ることにしたのだ、背中まで伸ばしていた髪をバッサリと。

変わってほしい、こんな自分も、彼の持つ彼女への執着も、晴れ渡る空のように青々と。

翌日のいつもの朝、私は電車の中で彼を待つ。聞いてみると彼が毎朝乗っていたのは喫茶店に行くためと私に会うためだったみたいだけど今となってはそれも虚しい話だ。

平坂駅、乗ってきた彼の顔が見る間に変化していく。

顔を細かく観察するようにすっと目を細め、微笑のこぼれる口元がだんだん嬉しさに緩んでいく。

私のところまで来ると彼はかすれたような声で囁く。

 

「そうか、そうだったよね君はずっと俺の中にいる。当然だ、この手の中で消えていった君はまた同じように俺の元に返ってくるんだから」

 

ギョッとして顔を見ても彼はただ笑っているだけ、愛しそうに切ったばかりの私の髪を撫でる。結局、豹変した彼の様子に気圧され何も聞けないまま蝮山で別れてしまった。当然仕事にもなかなか手がつかない。

一日中彼の事ばかり考えていた、そして決める。彼のことをよく知っている風だった喫茶店の主人、彼に過去何があったかを聞きにいこう。もしかしたら彼がこうなってしまった理由がわかるかもしれない。

 

 

 

山東駅から歩いてすぐの喫茶店、ここでは今日もゆったりとした音楽と一緒に店主がもてなしてくれた。

以前来た時と違って今日はきれいな晴れ空。庭のクロガネモチも陽射しを受けて明るい葉色を輝かせていた。

私は店主のところに直行する、彼は少し驚いたような顔をしながらも私を席に勧める。

腰を下ろすと意外にも彼の方から話を切り出した。

 

「おぉ、ビックリしたよ。この前に堂島君と来てた子だね?彼の昔の彼女の由美ちゃんに少し似てたから……

彼女が亡くなってるのは聞いてるかな?」

 

「えぇそうですね。私、ちょうど今日はその話をしてもらいたくてここに来たんです。

彼、最近すごく変なんです」

 

店主は察したように頷くと奥から写真立てを持ってきた、そのままカウンターに置く、私はそれを手に取って見てみる。

ツアー旅行の集合写真のようだった。

 

「ここの常連客を集めて5年前に行ったんだ、気持ちのいい高原だった。その、右奥に立ってるカップル分かるかな? 堂島君と由美ちゃんだよ」

 

急いで確認する。智樹の隣で写る彼女はショートカットで夏らしい爽やかなワンピースを着ていた。確かに目元のあたりなど私と似てるかも。

 

「彼はなかなかの変わり者でね。由美ちゃんも時々愚痴りに来てたよ。何でも自分の心に留めておけば充分だから他人に見せる必要もないって理由とかであまり写真を撮ってくれないらしくてな。

あの時もこの写真をコピーしてくれって用事だった」

 

そう言いながらコーヒーを渡してくれる店主。少し口をつけるとやはり苦い。急いで砂糖を流しこむ。

 

「由美さんっていつ頃まで智樹といたんですか? あと、彼女がなくなった原因って」

 

「まあまあ落ち着いて、私も全て知ってるわけじゃないんだ。由美ちゃんがなくなったのもつい最近知ったほどでね……。というのも二年前あたりから彼ら、ぱったりとこの店に来なくなってたんだよ。

旅行の後あたりだったかな、そうだ由美ちゃんに最後にあったのはこの写真の話の時だったね」

 

これはどういう事になるのだろうか、喫茶店に来られなくなるようなことが二人の間で起こっていた? でも店主の口ぶりからは仲の良さそうな印象しか受けない。

聞く質問を変えることにした。

 

「昔の智樹ってどんな感じでしたか? 彼、一緒にいてもなかなか自分のこと話してくれなくて」

 

「ああ、そういうことならいくらでも聞いてくれ。結構付き合い長いから。

昔の堂島君、そうだな割と情熱家だったかな、今はすごく落ち着いた印象だけど昔はよく私のところに相談に来てたよ。彼女が自分の元から離れていくのをひどく恐れてた」

 

「後は、そうだね。花について色々知ってたな。この前話したクロガネモチについての講釈、実は堂島君の受け売りでね。

花言葉はもちろんのこと、綺麗に咲く時期とかそれ以外の雑学なんかもよく知ってたねえ」

 

懐かしそうに眼を細める店主。私は手の中のカップで指先を温めながら彼の話を聞いていた。

 

「その関係もあったのか彼、花の写真を撮るのも好きだったね。今度見せてもらいなよ、由美ちゃんと来てた頃はよく見てたし。

いつも二人で肩を並べあって写真を見てた。堂島君、嬉しそうだったねえ。綺麗に撮った花の写真見せながら名前の由来なんかの話してて、私も随分勉強になったよ」

 

「写真好きといえば私もそういうところがあってね、彼とはよくそんな話題で盛り上がったよ。

ただ、彼はさっきも言ったように絶対に知り合いを写真におさめるようなことはしなくてね。景色や花、人混みなんかを撮ってたね。なかなか変わった拘りだった」

 

「そこら辺が私とは違ったかなぁ、私は人を撮るのが好きでね常連さん達と旅行に行ってはよく撮ってるよ。丁度この前の旅行でもねぇ……」

 

段々と話が店主本人のものに逸れて来てしまった。そろそろ潮時かな、この人もこれ以上の事は知らないだろう。やはり当事者から知るのが最も無駄がない。

私は店主にお礼を言うと席を立った。そういえば今週末は連休だ。そろそろ彼の家に行ってみようか、色々分かる事もあるかもしれない。

思い切ってメールをしてみた、ここで決着をつけてしまおう。過去、由美さんと何があったのかここでハッキリさせるんだ。そうすればきっと彼は私を真正面から見てくれる。そう願ってそっと手を組んだ、取り囲む空気は冷たかった。

冬が近づいていた。

 

 

 

 

 

彼の家はこじんまりとした一軒家だった。近所の大家さんに借りているらしい、庭こそないものの一つの部屋が広くとてもゆったりと出来る。

 

「びっくりしたよ、君から俺の家に来たいなんて……。いつも俺から誘うことが多かったから、嬉しいよ。

やっぱり一方的に求めてるだけじゃ不安になるからね」

 

果たしてそれは私に言っているのか、由美さんに言っているのか。彼が私に彼女の面影を見ているのは間違いないようだった。

 

「はい、コーヒー。牛乳好きだったよね? ちゃんと入れておいたよ」

 

私の中から由美さんを見つける度彼は微笑む、本当に幸福そうに。思えばそれは今に始まった話ではなく最初から、出会った時からだったのかもしれない。

 

「そういえばこの前あの喫茶店のマスターに会ったんだけどさ」

 

彼は首だけ少しこちらに傾けて応じる。

 

「智樹って花の写真とか撮るのが好きなんだってね。全然教えてくれないんだもん、ちょっと見せてよ。花、詳しいんだって?」

 

ちょっと意外そうな顔をされたけど問題なく彼はスマホを出した。そのまま説明が始まる。

 

「えっと、これがヤブツバキ。庭木でよく見るけど育った環境で咲き方が変わるらしくてね、ちょっと捻れたり色が変わったり。もう少し寒くならないと咲き始めないかな」

 

「これは芝桜。ここのはきれいに刈り込まれててね揃ってるよね。花はやっぱり色を一番に楽しみたいけどこの花は……」

 

嬉々とした表情で語る智樹の横顔をチラチラと見ながら私もスラスラと切り替わっていく写真を眺める。

よく撮れていて花弁のしっとりとした質感まで手に取るようにわかった。彼のこだわりが感じられる。

 

「で、これはラベンダーだね。ラベンダー自体って割と寒さにも強くて0度くらいまでなら越冬ができるんだよ。ただ、湿度が厳しくて俺も梅雨時期に一回枯らしてさ。

かなり落ち込んだりしたんだ」

 

「アハハ、何それ。なんか意外、智樹って花とかも育てるんだね」

 

ここでふと時計を見るともう九時半、大分熱中しておしゃべりをしていたらしい。

 

「もうこんな時間か、風呂入らないと」

 

「なら智樹からでいいよ、私長くなるし。もうしばらく写真見てるよ」

 

ああと返すと智樹はそのまま脱衣所へ向かう。私は今がチャンスとばかりにメールの確認を始める。今、私とメールでやり取りをしていることを考えると、彼女とのやりとりもメールとして残っている可能性が高い。

見ると、“水原 由美”と記されたフォルダがある。迷わずそれを開く、これでやっと分かる。二年間の間に二人に何があったか。

時系列を考えながら四年半くらいまで遡って読み始める。

 

 

四月二十二日

[最近疲れてそうって? 大丈夫、何でもないよ 

職場に新しい人が来たから忙しそうに見えるだけじゃない? 新しい環境になったからね、みんなこんなもんだよ

明後日、また泊まりに行くね]

 

 

五月二日

[今日歩いてた男の人? 前にも言わなかったかな……

職場の新人さんだよ、中根さん ちゃんと彼氏がいるって伝えてる心配しないで

それよりちゃんと寝てる? 何かあるとすぐ私の心配なんだもん健康第一、だよ]

 

 

五月九日

[ごめん、その日は友だちとご飯行くことになってて 買い物はその次の日に行こうよ、いい天気が続くみたいだしさ]

 

 

五月十三日

[今日持ってたバッグは一年くらい前にあなたが買ってくれたものじゃない、もう忘れたの? そんな事より今日の映画良かったね!

「僕はきっとこれからずっと君を忘れることはないだろう たとえ君がこのゴミ山から出て行ってしまっても、静かに心の中で君を想い続ける」だって、一途な人って素敵だよね]

 

 

五月十五日

[なんで私との約束、今日断ったの

言い訳は言わなくていいよ ただ悲しかったなって

もし中根さんなら絶対こんなことしないよ? 智樹最近余裕ないね、よくないよ]

 

 

五月二十日

[あんな時間に電話しないでって何度言ったらわかってくれるの? 中根さんとは何もないって言ってるじゃん、しつこいよ智樹

もういいんじゃない? 私たちの関係、これ以上続けてもお互いのマイナスにしかなんないよ]

 

 

六月二日

[あんた、康朗に何したの? もう切れてるんだから私が誰と付き合おうと勝手じゃない?

腹いせが目的なら充分でしょ、もう私に関わらないで]

 

 

六月八日

[私が間違ってた、智樹はずっと私のこと考えててくれたんだね

中根とはもう何もないよ 元からあっちが言いだして来たことだったし……

本当にありがとう、やっぱり私が好きなのは智樹一人だけだったよ]

 

 

フォルダにあったのはこれで全部だった。私が読み終わるタイミングを見計らっていたかのように智樹が風呂から上がって来た。

詮索を切り上げ私は立ち上がった。

その日の夜空は黒に遠く澄み、街明かりだけが私に心地よく寄り添った。

 

 

 

次の日、家に帰った私はついに手がかりが無くなりネットを開いた。若い女性が死ぬなんて大きなことは病でもない限り、たとえ事故でも記事になっているはずだ。

「水原由美 死亡 事件」 で検索する。

すると、最近起きたある殺人事件がヒットした。

 

 

六月十一日 日暮新聞

十日午後三時二分頃、南木町大砂四丁目の住宅で、会社員・水原由美さん(23)が首をロープで縛られ死亡しているのが見つかり、警察はこの家に住む同じく会社員・中根康朗容疑者を殺人の疑いで逮捕した。

中根容疑者は「俺は何もしていない」と容疑を否認しており、同警は被害者の交友関係を中心に捜査を進めていきたいと話している。

 

 

間違いなかった。私の中でただ宙ぶらりんに揺れていた半端な紐が次々と繋がり、一本の完全な線となった。

そういうことだったんだ、彼の歪んだ愛情は全てを包み込むことで完成する。あの日に彼女はあなたの永遠となったのだろう。

決断しなければならなかった。全てに目を瞑り盲目的に彼を愛することなど不可能に近い。

あなたも私も理解している、雲の消えた向こう側に本当の晴れ間は存在すると。だからこそお互いにそう行動したし、だからこそのこの状況だ。

これも神様の皮肉なのかな? あんなに一途な相手を願っていたはずのあなたが今度はその一途な想いに囚われてその相手を見失うなんて。

 

 

 

再び彼の家に向かう。彼はどんな気持ちで私と接していたのか。想像するだけで身を刻む思いだった。

ふり仰ぐ青空は白のカケラも見えはしない。あの日、電車であったあの時から彼の視線はただ一つを探していた。

雲の先にあなたは、私を通してあなたは、一体誰を見ていたの?

 

 

 

平坂駅に立つと彼が待っていた。出来過ぎたこの展開は当然、私が彼を呼んだから。

彼が何も言わないうちに私は伝えたいことだけを言った。

 

「私、全部知ったの。あなたのことも、由美さんのことも、三年前のことも……。

もう受け止めきれないよ。だから、ここで別れよう」

 

智樹は虚を突かれたように目を見開いた。でも知っている、彼が簡単にそれを許すということを。

あなたが私を見ていたのは雨降る雲の先に太陽を見つけるため。雨上がりのキレイな青空を前に過ぎ行く黒雲の背中なんて気にも留めないだろう。

 

「またそうやって俺を置いていくのか?」

 

「見てなかったのはあなたの方。 私はずっと待ってた」

 

「俺はお前のことをずっと思ってる、色あせてなんかない」

 

「お前、お前って誰のことなの?」

 

聞いてしまってから後悔する、今まで押し込んできた想いが一気に溢れ出る。束の間訪れる沈黙に、永遠のような気持ちになる。到底耐えきれるものではなかった。

だが、彼の方は止まっている。そんなことを言う私に、もしくは言われた自分に困惑している。

分かってはいたことだった。それでも私は勝手に失望して、そしてまた傷ついている。何も言わずに私はその場を離れた、彼がついてくることはなかった。

翌日彼から、この街を去る旨のメールが届く。思わず空を仰ぎ見た。

キレイに白雲が排除された空は、遥か遠く宇宙の蒼と両目の黒を取り繋ぐちっぽけな役割しか果たしていない。

 

一筋、頰を伝っていった雨粒がとても熱かった。