2、憐れな鉄鉱山の男と理想を語る検問官
・五部構想二作目、本シリーズは都度視点が変わるということで、それぞれから見た同一人物の印象の違いというのも意識してます
・最初の方に書いたのと比べると大分、文章がスッキリして読みやすくなってきたのではないかと……
183年11月21日
PM4:00
「聞きましたよヴァスル副長官、新しい検問官確保したんですってね。
今回はバカに早いじゃないですか。俺としちゃもう少し遅くてもよかったんですがね……」
愛用の長身銃を肩に下げ、国境警備隊部隊長のアレクセイはその口元を不敵に歪ませる。
「なに、そう長く放っておくと腹心の部下が力を付けて裏切りかねんからな。狂犬を飼いならすのも私の重要な仕事の一つだ」
笑みをスッと消すアレクセイに対比するようにヴァスルの顔は緩む。
「ハハ、冗談に決まっているだろう。今回の検問官は私が任命できたのでね、有能な部下を一人送り込んだわけだ。
これから西では上層のバカ共の好きにはさせんぞ」
「へえ、副長官の部下ですか? それはまた何とも……」
「ああ、一つ忠告しておこうかアレクセイ君」
キョトンとした顔のアレクセイにヴァスルの言葉は続く。
「新しい検問官、名前をドワノフと言うが。こいつが居るうちは小遣い稼ぎは控えるんだな」
「どういう意味でしょうか?」
「真っ当に警備の仕事をしてろってことだ。奴は少々堅いやつでな。この上なく仕事は出来るんだが手なづけるのに苦労している」
「まあ会ってみれば分かるだろう。くれぐれも気に食わんからといって妙な気を起こさんようにな」
含みを持たせた笑いのまま車で去っていくヴァスル、アレクセイにはそれが少々不穏なものに感じられた。
183年11月22日
AM6:00
『6時になりました。イルクテージと隣国のニュースを家庭に、ドルフズク日報の時間です』
朝、俺の日課はこのラジオを聴くことから始まる。たとえそれがオーブン付きの暖炉でよく温められた我が家から、隙間風で芯まで凍えてくる国営アパートのボロ部屋に変わっていてもだ。上官の指令はすなわちイルクテージからの指令。俺の能力を理解してここに置いたと言われれば断る理由などなかった。
『レブネフ政府の執念の追跡の末、二人目の銀貨泥棒が捕まり、残りの一人も顔写真付きで国際手配されました。
先月発生した美術品泥棒は、イルクテージ国境で捕らえられて以降大きな進展がありませんでしたがレブネフ政府が市場に流れるドネフ銀貨を発見したことで今回の犯人逮捕につながったと見られています。
レブネフ政府は残る一人の犯人の手配書を周辺国に送り、警戒を呼びかける姿勢です』
銀貨泥棒か……検問の経験は今までなかったが、ジェームズ検問官との研修で大体の要領はわかった。手配書もあるなら問題なく業務に当たれるだろう。
ラジオの電源を落として俺は制服のコートを羽織る、ガチャガチャとドアノブを回して空気凍る朝の西国境の町を歩いていく。
AM7:00
検問所に入ると、ポストには通達書とともに例の手配書が入っていた。写真には痩けた頬にやたらと鋭い目つきをした女が収められている。あまりにも鮮明な写真だった。どうも一度とらえた後に逃げ出されたようだな、だからこそ未だレブネフ国内にいると断定できたのだろう。
俺は検問官室に備え付けてある薪ストーブに早速火を付ける。パキパキと心地よい音を聞いているとレブネフ側から何人かの通過者が歩いてきた。
「名前とパスポートの製造国」
ドアが開けられ、入ってきた男にさっさと質問をぶつける。俺は無駄なことが嫌いな気質だ、報告書と番号の照らし合わせに必要なこと以外は要らない。どうせ聞いたところでパスポート通りにしか答えないのだから。
「トム・ボッソー、それはレブネフで作ったパスポートさ。どうしたんだ今度の検問官さんは、バカに無愛想じゃあないか」
赤い毛糸帽のトムは窪んだ目を一杯に開いて、おどけた調子で話しかけてくる。俺はかまわず業務を続ける。
「目的は? どうしてイルクテージに」
諦めたように首を振ったトムはおとなしく答え始めた。そう、最初からこの調子でいい。通過者との馴れ合いなどつけ込まれる隙にしかならない。
「労働だよ、こっちの街に毎日だ。四人とも工場で働いてる」
「期間は? いつから工場で働いてる」
「半年くらいかな、四月の頭からだから七ヶ月にはなるな」
「その前はどこにいた」
「細かいな、あんた。前の検問官が押したハンコが見えてないのか? それが問題なしっていう何よりの証拠だと思うんだけどな」
「お前の仕事は工場で働くことであって検問官ではないだろう? 前の検問官の評価など知るか、俺は自分の判断に従って決めていく」
チラと怯えたような顔をしたトムだったが、すぐに俺の問いに答えた。
「あーあー分かった、答えるよ。レブネフで大して変わらない日雇い坑夫さ、ただ工場のがだいぶマシだよ。崩落も、正体不明のガスも出ない」
「いいだろう、次だ。入ってこい」
順調に一人ずつ聞いていき、俺は最後の四人目に取り掛かる。
「名前とパスポートの製造国を」
その男はさもメンドくさそうな顔をしながら答える。
「ライノ・グート、他の奴らと同じくレブネフだよ。早くしてくれ、俺たちは工場勤務だぜ八時には仕事を始めないと」
Ao348164か、面白い。
「レブネフね……。一応確認しておこうか、お前性別は」
「見て分からねえか、男だろうどう見たって。それがどうかしたのか」
「いいだろう、お前は不可だ」
そういって男のパスポートに赤字のdinialのハンコを押す。入国拒否、このパスポートは次回の検問でも参考にされるだろう。
「待てよ、おかしいだろう? 何で俺がダメなんだ他の奴らのと何も変わらないだろう」
「何だ、どうかしたか」
既に入国の手続きを終えた残りの男たちも顔を出してきた。
「パスポートが違う、諦めるんだな。前の検問官は騙せていたようだが俺はそうは行かない」
イルクテージのパスポートは国内にある国境管理局の事務局か、周辺国に建てられたイルクテージの大使館で発行される。その際のパスポート番号は一律に定められた法則通りに印刷されており、膨大なパスポートの管理の他に所有者との照らし合わせで不審者を弾く役割があった。
最初のアルファベットの組み合わせは製造された国を表す。続く六桁の番号は上二桁が性別を、残りの四桁が単純なナンバリングを示す。
この男の組み合せのAoはレブネフで問題ない、しかしこれに続く34。
通常は奇数で女性を偶数で男性を表すのだが、アルファベットの二文字目が母音の時に限りこの法則は逆になる。つまりAoの32とはレブネフの女性を表すものであり、少なくともこの男のパスポートではない事が確定するのだ。
渡されたパスポートを丹念に見渡し、男は落ち着かない様子だ。
「クソが、おい検問官。何とかいったらどうなんだ? ライノが不法入国なんてあり得ないだろうが」
意外にも怒る三人を諌めたのはそのライノという男だった。
「大丈夫だみんな、俺はこいつと話をつけてから行く。みんなは先に工場へ向かってくれ、遅刻に対する工場長の懲罰を受けるのは俺だけで十分さ」
そう言われてもしばらく引き下がらなかった三人だが、ライノの粘り強い説得にようやく頷き足を東に向けた。
ライノは息を吐いたかと思うと、途端に目つきを変え媚びるような視線を送ってくる。嫌な顔つきだった。
「なぁ、頼むよ検問官さん。俺の唯一の食い扶持なんだ、あいつらともまだ離れたくねぇ。通行料を弾むからさ、見逃してくれよ。俺の三日分のメシ代だぜ、これでもダメなら通るたびに持ってくるからさ」
「なぁ、良い条件だと思わないか? 俺だって中に入って悪事を働こうなんて思っちゃいないんだ。頼むよあんたなら分かってくれる、そうだよな」
そう言いながら俺の手に布包みを押し付けてくる。不快だった、俺は包みを掴むと窓口から通過者用の部屋に叩きつける。
「言いたい事は終わったか? さっさと国に帰れ。ここは規律と秩序のイルクテージだ、お前のような輩を通す理由などない」
必死に金を集めるライノ、流石に諦めたようで何度もジットリとした目でこちらを振り返りながら冷えた荒野を歩いていった。
俺はフンと鼻を鳴らして報告書を書き始めた。ここに入国拒否者を書くのは検問官の自由だが、俺は細かな特長とともに男の名前を書き込む。我が祖国に腐臭漂うウジ虫を入れるなど今後もあってはならないのだ。
183年11月25日
AM10:00
雪に包まれた検問所は白霧の孤島といった様相を呈しており、時折巻き上げられる氷片が寒々しい印象をさらに引き立てていた。
季節は冬。通過者たちの残していく足跡も時間とともに掻き消え、無機的な平原が視界の先まで続いている。
俺がストーブで湯を沸かしている時だ、イルクテージ側から今時珍しい荷車を引いて来る人影があった。
ホロの被せられた荷台の上には白く雪が積もっており所々が凍っている様子だった。途中で荷下ろしなど無かったのだろうか。
などと思っている間に、男が中に入って来る。荷車は当然入らないために門の前に置いて来たようだ。
「名前とパスポートの製造国だ。それとどうしたんだあの荷物? 」
「そう!聞いてくれよ検問官さん」
20代前半ほどの印象の若者は俺の顔を見るなり訴えて来た。
「待て待て、話の前に名前とパスポートの製造国だ。どこから来たんだ、あんた」
「ああ、そうかそうだよな。俺はイアン・アルミロ、テザンメルのパスポートだよそれは」
番号はIi779031、嘘はついていない。それにパスポートを開くと入国許可の上に白線のハンコが押してあった。取り敢えずは大丈夫そうだな。
俺は早く何か話したそうでソワソワとしているイアンを促してやる。
「それであの荷物は? 荷車を使ってるのも珍しいとは思うが」
「荷車は後で話すよ、取り敢えず聞いてくれ」
そう言ってイアンはここ数週間の悲劇について語った。
「そのパスポートを見てくれれば分かる通り、俺は一度この国に来たことがあるんだ。始めて来る国だったから、観光地なんて無くても物珍しかった。
それで来た日に気がついたんだ。イルクテージの小麦はテザンメルやレブネフなんかに比べてはるかに高額だ。その時は国に農地がないから、自然とこんなに高くなるんだと思った。それで考えたんだ、この国に小麦を持ち込んで売れば物凄い儲けになるんじゃないかって」
ハァ、俺は小さくため息をついた。たまにこういう旅行者がいるらしい。この国の制度を調べもせずに通っていったのだろう。
「それで俺は一度、テザンメルに帰って金を用意するとテミュに行った。テミュとイルクテージは町の中に国境があるからね、持ち込むのが簡単だと思ったんだ。
ただ、俺は車なんて持っていなかったから仕方なく荷車にいっぱいの小麦を載せて国境を越えた」
「その時、検問官に何も言われなかったのか?」
「何も、ただ妙にニヤニヤとしていたなあの検問官。クソッあの時はこんな事になるなんて思いもしなかった」
「それからどうした」
「東国境の町で小麦を売って歩いたんだ、でもどの家に行っても青い顔をして断わられるだけだった。
売る場所が悪いのかと思ってこっちの検問所を目指しながら各町に寄って歩いて来たんだけど誰一人として買ってくれなかった……検問官さん教えてくれよ。これは一体どういう事なんだ」
悲痛な顔をして話すイアンに俺も同情していたのだろう。スルスルと説明の言葉が出て来た。
「イルクテージ政府が小麦の専売をやってるからさ、だからこの国の小麦は高い」
「専売? なんでそんな事」
「小麦は誰の生活にも無くてはならない必需品だからな、価格を安定させる為にやっているそうだ。俺も詳しくは知らんがな」
「とにかく、その政策によってキングフリクとレブネフに跨がる穀倉地帯から貨物列車に載って運ばれてくる小麦は、一度政府が買い取った後に小売店に流される。
当然、政府も元値の数倍の値段をかけて売るだろう。そこから各小売店が儲けを産むために更に価格を上乗せするから小麦の値段は目が飛び出るほどの額になる」
「おかしくないか、それ。政府は国民の生活安定のために小麦の専売をやってるんだろう? なんで価格を上乗せするんだ」
「さぁな、少なくとも専売の始まった最初の理由はそれに間違いは無かったんだろうが、時代とともに金を自分の懐に落とす役人が出てきたんだろう。しかも大勢」
あんぐりと口を開けるイアン、彼がイルクテージ政府の実情を知れば更に驚く事だろう。
「取り敢えずこれが小麦がやたら高い理由だ、次に誰も小麦を買わない理由だな」
「こんなに高額の小麦、お前以外にも利用しようとする者が出てくるのは当然の話だ。
だからこそ、政府はその辺に手は打ってある」
俺はイアンのパスポートの裏表紙を見せる、そこには赤地に黒十字の長方形が描かれている。
「これが何かわかるか?」
「何って、イルクテージの国旗だろう。四つに分けられた赤はイルクテージ建国の際に流れた四つの民族の血を表し、黒十字は勝ち取った独立を他国から守るという決意のこもった鉄格子」
「由来まで知ってたか、そういう事だ。これをパン屋や商店で見なかったか?」
「そう言えば……店頭に国旗が描かれた布袋が飾られた店がいくつもあったな」
「そう、その布袋こそこの国で流通を認められている小麦の袋だ。国民はこの布袋以外での小麦の売買を禁止されてる」
「だから皆買ってくれなかったんだ……ありがとな検問官さん。よく分かったよ」
「とにかく、こんな事は二度とやらない事だな。お前は運が良かった、この国で違法小麦の売買は一応禁止されてるから人の悪い検問官や警察に会ったらその場で逮捕だったんだぞ」
「本当か、ありがとう。気をつけるよ」
俺が開いてやった門を通り、荷車を引いた奇妙な男はレブネフへ去っていった。
俺は検問所へ帰ると凍えた指先を温める。と、検問所の後方のドアが開いて国境警備の軍人が入ってきた。
「妙な男だったな」
男は警備隊の制服に身を包み肩を怒らせ、がっしりとした体つきだ。
「ここは検問官室、そう軽々しく入って来られては困るんだが」
男は片眉を上げるも気に留めないといった様子。
「あんな大荷物を持ってくるやつだぜ。国境警備を預かってる身としては気になって見に来るのはごく自然な行動だと思うがね。
それと新しい検問官様ってのとも会っておきたかったからな、何せヴァスル副長官直々の推薦だ。
国境警備隊の部隊長をやってる、アレクセイだ。仲良くやっていこうぜ同じ西国境を守る者としてよ」
「検問官のドワノフだ、よろしく。
ヴァスル副長官か、あの人は俺の理想を理解してくれてる。毎度俺に見遣った仕事を当てがってくれるからな」
「前はどこに?」
「国税局だよ、あそこは酷い職場だったな。毎週のように上官たちからの手紙が届いて、そうと思ったらいつの間にか書類が書き変わってるんだ。辟易したよ」
「ハハ、今さら何を言ってる。ここはそういう国だろう。
それに奴らにだってもっともらしい言い分はある。『人々の富の平等と再分配』だ、まぁ巻き上げた金でどれだけ懐を温めてるかは知らんがね」
アレクセイは心底愉快そうに肩を揺らす。
「それが良くないと言ってるんだ、ここは規律と秩序のイルクテージ。腐った役人は即刻辞めさせるべきだ」
「おいおい、そんな事言ってるとあっという間に監獄行きだぜ。この国で上手く生きてくにはのらくらとしながら上官様の顔色は伺っていかないと」
俺は首を横に振る、どうもこの男とは意見が合わない。一度落ち着くために机上のカップを手繰り寄せてぬるま湯をすする。またストーブで温め直さないと、少し冷えてきている。
「それにしてもあのイアンという男、もう少しやりようがあったと思うがね」
アレクセイも同じような事を思ったのか、急に話を変える。まぁ本来はこちらの方が本題だったようだが。
「もっとよく調べれば、小麦の指定袋の話も知れてそれなりの対策も出来たろうに。まぁ国外の者がイルクテージの仕組みを知るのはちと難儀だろうが
ジェームズもそれを分かっててわざと通したんだろうしな。まったく、悪趣味なオヤジだぜ」
頭にジェームズ検問官の顔が浮かぶ。でっぷりとしたお腹を撫でてはいつも妻に注意されるとボヤいていた。あんな印象でのんびりとした雰囲気だったが、相当な切れ者らしい。
「ジェームズ検問官といえばテミュ酒が好物のようだったな。酒のアテにチーズもよく食べていた。
チーズは行きつけの店の特製だと話していたよ」
「へぇ、あれで中々の美食家なんだな」
もっと詳しく話せよと言い、アレクセイは興味を示したようだった。薪ストーブ近くに置いてある木製の丸椅子を近くまで寄せてドスンと腰を下ろす。
「東国境の町にある商店だったかな、アルバトフという人当たりの良い主人が夫婦でやってたのを覚えてる。扱ってたのは酒やパン、ハム、チーズ……殆どがテミュからの輸入品だったかな」
「確かにテミュは酒もハムもうまいからな」
「お気に入りの店だからなのか、ジェームズ検問官はあの店からよくパンを買ってたよ。しかも純小麦製だ、検問官の薄給でよくやるよな」
「あいつは昔から妙に羽振りが良いんだよな、検問官の給料は東も西も変わらないはずなんだが」
訝しげに首をひねるアレクセイだったが、やがて興味を無くしたようだった。
「まぁいい、あのおっさんの稼ぎの秘密なんざ知ったところで俺たちに何かある訳でもあるまい。邪魔したな」
検問所のドアを開けると静かに雪の散る荒野へ歩き去っていった。
奴が最後に投げかけた疑問は小さな欠片となって俺の頭の隅に沈んでいった。
183年11月30日
AM6:00
『6時になりました。イルクテージと隣国のニュースを家庭に、ドルフズク日報の時間です』
ノイズが混じるものの十分明瞭な音声で女性は話す。
『炭鉱の採掘権をめぐり長く戦争の行われていたテザンメル・キングフリク間でしたが、遂に無期限の停戦条約が結ばれました。
テザンメルが採掘権を勝ち取ったものと見られ、緊張の続いていた地域にようやく平和が訪れそうです』
俺は棚に買い置きしておいたライ麦パンをかじる。小麦の高価さゆえ、どこのパン屋もライ麦やオーク麦を使って小麦の使う量を減らす工夫をしていた。この国で純粋な小麦のパンを食べられる人間など政治家か、もしくは監獄の中の罪人かだ。役人は国民からだけでなく国庫からも金を削り取っていく、本当に嫌な奴らだ。
『来年の独立記念大会を前に、会場となる首都のフィラフィルでは準備が始まっています。八年に一回の首都開催という事もあり、街は既に活気付いており来年の大会に期待が高まります』
PM4:00
男は酷く汚れた格好で検問所に入ってきた。
「名前とパスポートを」
事務的に応対する俺の声を遮るように手を顔の前に突き出す、あかぎれた手の平が目の前にくる。
「俺にはパスポートがない、だが聞いてくれ。俺の身の上話を聞けば通す気になるはずだ」
勢い込んで言うと身勝手に話し始める。元より、俺はどれほど心を突き動かされようと人など通さない腹だ。話をやめさせようと口を開くとすぐに手で制される。
大人しく聞くしかないらしい。まったく、なんて無駄な会話か。
男は、自分は被害者であって罪人ではない。と前置いて話し始めた。雰囲気からしてこいつも国に騙されたクチだろうか?
「十年前だ、テザンメルとの戦争のせいでキングフリクにあった俺の家は焼け、家族も全員失くしてしまった。
その上、戦争が続いてるからいつまでも俺の土地にすら近寄れない。その時に俺は所謂戦争難民になったわけだ」
男は大きな身振りで自身の境遇を語る、太く力強い眉の上下で未だに彼がその事をひきづっているのが分かる。
「それからしばらく、苦しい生活が続いた。その日食べる物に困る日はそう珍しくない。食もなければ満足に寝られる温かい寝床もない、数週間で限界がきたよ」
「それで、とにかく国をでてどこかの外国で戦争難民として保護してもらおうと思ったんだがどこも厳しくてな。
イルクテージじゃ、検問官に追い出されて国境さえ越えられなかったよ」
訴えかけるように大きく眼を開けて顔を覗き込んでくる。俺は黙殺し、早く先を話すように促す。
「そんな折りだ、レブネフである噂が流れた。レブネフの港から密入国の業者がイルクテージ行きの船を出してるらしいって内容だ。俺はすぐに飛びついた。
なんせ、その当時のイルクテージは鉄鋼採掘の最盛期だからな。国内に入りさえすれば仕事はいくらでもあると思ったんだ」
「それで俺は同じような心算の二、三十人の浮浪者や難民と一緒に船に詰め込まれレブネフの港を出た。
異変が起きたのはここからなんだが、イルクテージの港町に着いた時、待っていたのは業者の関係者じゃなかった。
国境警備隊だったんだ。当然、俺たちは正規の手続きなんてしてない密入国者だ。調べられればあっという間に逮捕される。
だが国境警備隊はその調査すらもしないで俺たちを捕まえた。その時にやっと俺は悟った。あの業者に嵌められてるんだって」
「そっからは、まぁ想像に難くないよな。罪人という体で引っ張ってこられた俺たちだ。馬車馬のように働かされて鉄鉱採掘を強いられた。ある意味、当初の目的が叶ったがこんな事になるとは思いもしなかったな」
「鉱山では人はすぐ死ぬ。だからだろうな、あの中でイルクテージの国民になんて会わなかった。
ああ、重刑者はいたかな。とにかくほとんどは俺と境遇を同じくした不法入国者さ」
「そんな状態が何年も続いた、解放されたのはつい最近のことさ。だがだからと言って俺たちにはパスポートも無ければ手持ちの金もない、ほとんどの奴がまだ相変わらず鉱山の町で鉄鉱を掘ってるよ」
「じいさんは違ったのか?」
「俺はたまたま他の職が見つかったからな……。それでしばらく食いつないでいたんだが、今朝のラジオを聞いて飛んで来たよ。もちろん仕事はあったんだがもう俺には関係ない。やっとテザンメルとキングフリクの戦争が終わったというじゃないか。
分かってくれるか? やっと俺の家に帰れるんだ、頼むよ通してくれ。こんな異国で骨を焼かれるのなんざまっぴらなんだ、祖国キングフリクに返してくれ」
どうやらこの男、イルクテージのタチの悪い方の役人に捕まっていたらしい。同情するとはいえ、ここでこいつを国に返してイルクテージでの出来事を喋られでもしたら黒幕の役人はおろか、この国そのものの危機に繋がりかねない。
難民を拉致に近い形で連れ去り、働かせていたのだ国際社会の弾劾は避けられないだろう。
俺はそっと机裏に手を伸ばし、警備隊を呼ぶ。残念だがこのじいさんには監獄に入ってもらわねばいけないらしい。ヴァスル副長官にも報告せねばなるまい。
「忠告するぞ、じいさん。キングフリクに帰るのは諦めた方がいい今ならまだ間に合う。警備隊が越境者を捕まえに来る前に早く町へ帰れ」
「だから、そうなる前に通してくれと言っておるだろう?
それとも何か、お前もそうなのか。腐ったイルクテージの役人の一人なのか?」
「そう取られても確かに仕方ないかもしれんが、俺はここの検問官だ。通すも通さないも俺のハンコ一つ。
俺は不正を許さない。ここで情にほだされてあんたを通せば、途端に俺もあんたも毛嫌いする腐った役人の仲間入りだ。
それは俺の名誉に関わることさ、あんたは諦めるだけでいいんだ。世の中にはあんた以上に辛い境遇の人間なぞザラにいる」
口を曲げ、目を見開き、憎々しげに顔を歪ませた老人はガッといきなり腕を伸ばして俺の襟元に掴みかかった。
「想像力を捨てた機械が偉そうな口を聞きおって。お前に俺の辛苦を分かれとは言わん。ただ、辛い過去は他人と比べるものではない」
説教がましい口調で口角泡を飛ばしてくる。鼓膜がビリビリと震える。
「やめてくれ、じいさん。検問官への暴力は完全な犯罪行為だぜ、見つかりゃ現行犯、即刻逮捕だ」
「関係あるか、俺は」
「そいつの言う通りだ」
突然検問所のドアが開き、慈悲なき銃口が老人の頭に突きつけられる。
「大人しく手を放して検問所の外へ歩いてこい。ゆっくりだぞ、そうだそれでいい」
アレクセイが部下を二人伴ってやってきたらしい。老人に逃げ場はなかった。
アレクセイに事情を説明すると、何が起きるか察したようだった。彼もヴァスル副長官の駒の一人である、彼なりの打算は当然あるのだろう。
老人は手首を縛られ、腕を掴まれて強引に連れていかれた。
アレクセイが事後の対処のためにと一人残していった警備隊員が名乗ってきた。どこかで聞いたような名に思える。
「国境警備隊のハンス・アルバトフです」
「検問官のドワノフだ、世話になったな。あのままだったら殴り飛ばされていたかも」
「はは、その時は無理矢理でも振り払ったんでしょう。ワザとされるがままになって現行犯を取るなんてあなたもなかなか悪どいですよね」
妙な言い方だと思った、何よりハンスの顔は笑っているというよりか笑ったように顔をつくったような顔をしている。妙に居心地の悪い違和感はその日中拭えなかった。
183年12月3日
PM6:30
例の騒動以来、ほとんど会話を交わさなくなったトム達三人を見送って俺は次の男を入れる。レブネフ側から入ってきた男は名前をロドイ・エゴールと名乗った。
「出身は? それと入国の目的だ」
「レブネフですよ、目的ですか? 我が愛しのイリーナのためです。今、随分苦しい生活みたいで……」
「病気か何かか」
「カネです、この国は本当に物価が高い。特にパンですか隣国の三倍値ですよ。本当、この国の小麦はどうなってるんだか」
「ああ、苦労してるんだな」
「政府の中でもこの価格はおかしいと動いてくれている人たちはいるんですよ。でも国境管理局のフレムレイ長官、彼が小麦の価格調整に難色を示してるみたいで……」
「国境管理局の権力はかなりの物だからな。それにしたってやけに詳しいじゃないか。国を隔ててるといっても隣町の事情は流れてくるのか」
「というより、あちらの町は元々レブネフだったんですよ。だから彼女も元はレブネフ国民だったんですが、国境線の結果イルクテージに編入されて」
「二年前の戦争か、そりゃ大変だったな、ありゃ結局レブネフから街一つをぶん取った形になったわけだが」
「ええ、そうですね。そういえば変なのがそれなんですよ、知ってますか?ここいらの地図はまだ国境戦前の物が使われてるんです」
「ダフ川で国境が切れてるってことか?」
「ええ、そうです。しかも、レブネフでもイルクテージでも最新のものはまだ作られてないみたいで。今でもあの町は地図の上ではレブネフ領という事になってるんです」
「確かにおかしな話だ。ま、上のことだ。単純な職務怠慢じゃなけりゃ何かしらの悪巧みだろう。考えても無駄な話さ」
「検問官さんもやっぱり今の政府に不満が?」
俺の言葉を受けてかロドイが唐突に呟いた。
「不満というわけじゃあないが……」
「俺たちとこの国を変えませんか」
「ん? どういう意味だ」
「あぁ、いや忘れてください。少し長居しすぎたみたいだ……じゃあまた」
そそくさと検問所を出ていくロドイはどうにも青い顔をしていたように思う。
183年12月6日
AM6:00
『6時になりました。イルクテージと隣国のニュースを家庭に、ドルフズク日報の時間です。
キングフリクで原因不明の伝染病が広がっています』
久し振りに興味をそそるニュースだった。服を着る手を止め、俺はラジオに聞き入る。
『感染者の多くは高熱に倒れ、治療薬も開発されていない状況です。患者がキングフリクとレブネフに跨がる穀倉地帯に多いことから、政府は小麦由来の中毒症状ではないかと調査を進めています。また、それに伴い小麦輸入の全面規制に踏み切り専門家などからは早くも懸念の声が上がっています』
イルクテージには農地がほとんどないため小麦は全てキングフリクとレブネフからの輸入に頼っている。それを規制すれば程なくこの国は食糧難に陥るだろう。政府は一体何を考えているのだろうか……。
AM7:00
通達書には今朝のニュースを受けてのものか、伝染病に関する指示が記載されていた。
「なんだ?キングフリク国民の入国は全て拒否。それ以外の旅行者については感染の疑いがないか注意深く調べること、か。
と言われてもな、そいつが伝染病にかかってるかどうかなんて俺には知りようもないしな」
迷う暇などほとんど無かった。7:00の開門とともに業務が始まる。
「国は?」
「レブネフ」
「……問題ないな、次」
「キングフリクからです」
「ダメだな、伝染病が収まってからまた来い。次!」
「ええ、テ、テザンメルから……」
「キングフリクからだろう、このパスポート」
「その、病気の母親が国に!」
「恨むなら伝染病でも恨むんだな、俺は仕事をこなしてるだけだ」
この日はいつにも増して入国者が多く、その分拒否者も多かった。大半の者はやはり伝染病を恐れていたようで、ほとぼりの冷めるまではイルクテージか、さらに超えてテミュまで行くつもりのようだった。
「国は、随分体調が悪そうだな」
マスクをした青い顔の男には当然審問をかける。
「ええ、寒いですから……風邪をひいたようで」
「帰れ、伝染病患者は入れない決まりだ」
「そんな! これは伝染病なんかじゃあ」
「通りたければ風邪を治すか診断書を持ってくるんだな。国に病を持ち込むなよ、次」
状況は悪くなる一方だった。
183年12月8日
PM6:00
この日も、政府からの指示は相変わらず続いていた。日が落ちて先ほど拒否したキングフリクの男とすれ違うようにその女は検問所に入って来た。
「名前と出身国だ。キングフリクなら通せない、規則だ」
女の顔は長く垂れ落した黒髪の奥にあった。そのため検問所の強い照明に照らされ、細部は影に覆われ判然としない。
ドワノフの問いかけに気にする風もなく懐から取り出した紙を彼に手渡す。それは書状の一部のようで、必要な部分のみを切り取った跡が見られた。
検問官はこの書状を渡されたならばその持ち主を通し、そのことの一切を他に漏らさぬこと。またこの件に関しては一切の関与、詮索を禁ずる。
貴君の使命はただ、この人物を通し通常の業務に戻ることだ。賢明な判断を期待する。
国境管理局長官クラヴジー・フレムレイ
女は手紙を渡した今、他に言うこともないというように特に何を言うでもなく立っている。俺は眉をひそめて検問を開始する。
「これをどこで?確かに長官殿の筆跡のようだがどうにも怪しいな。目的はなんだ」
「手紙を読まなかった? 私についての詮索も全て禁止のはずよ、彼はそれを望んでいない。分かるでしょうこの国で生き延びている役人なら」
「どうにも納得がいかないな、仮にも国境管理局の長官が権力を振りかざして通そうとしているのが、こんな貧相な女一人? やはり偽物じゃないのか、これは」
「通せって言ってるでしょ‼︎」
突然声を荒げた女はその勢いのまま手紙をひったくる。
「もう全て読み終わったはずよ、紛れもなくこれは本物。
いい? あなたの任務は私の検問じゃなく私を通してそれを忘れること。
悪いけど今の一部始終、彼に報告するわよ。これ以上私の心象を悪くしたくないなら早く……」
俺の耳には女の声は聞こえてなどいなかった。振り乱した髪の合間からのぞいたその顔は、先日配布された国際手配の女の顔そのものだったのである。
「痩けた頬、鋭い目つきに細身の女……間違いないな。ハハ、この検問所を通ったのは間違いだったな」
ガッと女の手を掴むと俺は警備隊を呼ぶ。女をみすみす逃す手など無かった。
「離せ、離しなさいよ。いいのどうなっても知らないわよ。私は彼の」
「その続きは監獄の中でだな。お前か、銀貨ドロボウの最後の一人ってのは」
アレクセイが到着し女は拘束された。俺は手紙のことも話す。
「なるほど、やっとフレムレイ長官の尻尾を掴んだかもしれんな。お手柄だぜ、ドワノフ」
アレクセイはニヤッと口角を上げると不法入国者を連れて行った。
183年12月10日
AM9:00
「いや、まったく君の働きは大きい。これでやっとあの男を退けて先へ進める。あいつは本当にボロを出さない男だからな」
毛皮のコートに暖かそうな黒い帽子を被り、ヴァスル副長官は検問所を訪れていた。
「まさか、国際手配犯が長官の紹介状を持ってるなんて夢にも思いませんでしたよ」
「まったくだな、だが面白いのはここからだぞ。万が一にもあいつが強盗グループの関係者だったなんて事になれば即失脚。
予定よりも早くだが俺のところに長官の席が回ってくる事にもなる」
クツクツと笑う副長官は俺に続けた。
「こんな状況だ、そろそろ本格的に動く時が来たのだろう、お前に一つ指令を送る。今から二、三日の間にキングフリクからバザロフという男が来る。そいつを絶対に通してくれ。
お前の働きは本当に良いんだ、くだらないミスをやらかすんじゃないぞ」
そう言って車で去っていくヴァスル副長官を俺と、警護のために近くにいたアレクセイが見送る。
「お前、ヴァスルさんの指令やらない気だろ」
突然投げかけられた言葉は手加減なく俺を貫くものだった。指令を受けたあとの俺の顔から良くないものを受け取ったのかもしれない。
「そういやお前、前に言ってたもんな。国のために動くとか何とか……その時の俺の言葉、覚えてるかい?
さあどうするここが分岐点だ。お前のつまらない戯言にすがって一歩道を踏み外せばあっという間に今まで築いて来たものは崩壊するぜ」
「五月蝿いな、この検問所を仕切ってるのは俺、延いてはこの国だ。俺の検問はただ法律に従っての行動に過ぎない。
俺の意思、立場がどうこうの話じゃないのさ」
「まだ分かってないな、お前。そもそもお前の言う国ってのは何だ実際に動かしてる政府のことだろうが。なら上の決定はこの国の決定、上官の指示は国からの指示って話だ」
「それは国の規則の中でだけの話だよ、上官個人の意思とイルクテージという国の意思は違う。
ここは規律と秩序の国だ、究極的に俺達の従うべきはこの国なんだよ」
「だから、お前の思う国は何だ。
この国そのもの、なんて曖昧な答えが許されると思うな。
政府じゃなきゃ、法律か?国民か?ならお前の守るべきはそいつらなんじゃないのか。
その信念に沿うならあの鉱山の男は通すべきだったろう、彼はイルクテージの腐敗が生み出した被害者だったはずだ」
「あれはお前も分かってるだろう。イルクテージの為に拘束したんだ。他の奴らだってそうさ、とにかく俺の行動原理はイルクテージなんだ。個人の欲求やら脅迫に応じる気は無い」
「大体、実体のない信念なんざあるから間違うんだ。
お前の嘯く規律と秩序の国なんて有り得ない、虚構にすぎないのさ。
イルクテージだって例外じゃない、規律が無いから罰で縛り秩序が無いから法を敷く。そんな理想の夢の国、実在するなんて思う方がバカな話だ」
「理想を掲げなきゃ実現の可能性すらないだろう?」
「……そう思うなら、なおさらヴァスルさんには従うんだな。
一つ聞こうか、今この国がおかしくなってる原因は誰にあると思う」
「漠然としすぎてないか……誰、というのは分からないが最も問題があるのは小麦に関して、だと思うが」
「そうか、ならその元凶は分かるか?
ヴァスルさんはずっとそれを撤廃しようとしてるんだ」
俺は驚きに目を見開く、そういえば一週間ほど前にある男が言っていたではないか。小麦専売の廃止に最も反対しているのはフレムレイ長官である、と。
「もしかしてヴァスル副長官の目的っていうのは……」
「ま、そういう事だ。今回通せって人物もそれ絡みだろうな。お前の理想に最も沿った意見を持ってるのがヴァスル副長官っていうのは、まぁ覚えとくんだな」
そう言うと歩き去るアレクセイ、俺は何も言わずドアを閉め通常業務に戻った。震える手で飲む水は冷たい塊となって腹の底に落ちていった。
PM2:00
バサロフ、バサロフか……。来るならいっそすぐに来て早くこんな気持ちから解放して欲しいものだった。課せられた指令を逃れられないなら出来る限り平静を持って乗り越えていきたい、そう思う。
久しく見ていなかったがイルクテージ側から久しぶりの越境者だった。あまり意味はないが規則書を引っ張り出す、今はとにかく別な事をして頭を働かせない方がいい。
男は、小太りのスーツ姿で手荷物もあまり持っていないようだった。
「名前とパスポートだ、旅行じゃないのか?随分と荷物が少ないな」
「はぁ、少し買い物に行くだけなので。ヴィクトル・マイタコフです、アスハル家で執事をさせていただいてます」
「へぇ、あの町医者のとこの……。あそこは人使いが荒いので有名じゃなかったか?」
パスポートに特に問題は見られないから、あとは出国の目的次第だろうか。まぁ、この様子なら特に問題はなさそうだが。
「そうなんです、今ここにいるのもワガママなお嬢様が! ああ、ええとこの事は私が言ったとは」
苦笑いで首肯し続きを促す、ヴィクトルはハンカチで額の汗を拭いながら鬱憤を吐き出した。
「最近の小麦の輸入禁止で国内のパン屋にはほとんど小麦のものが置かれていなかったでしょう?
アスハル家の方々はライ麦パンがあまりお気に召さないらしく、特にお嬢様はお食事を取ってくれないのです。
仕方なく方々を探し回り、東国境の町から今日まで届けさせていたのですが」
変だな、出回っていた小麦まで回収されたから本当に国から小麦が消えていたんだが……。作り置きしていたにしても2日と保たないはずだが。
「それが!今日の昼になって急にもう作れなくなったと。本当に滅茶苦茶ですよ、案の定アスハル嬢は駄々をこねて……。
私がこうやってレブネフまでパンを買いに行かされる羽目になったわけです。一つ確認しておきますが、パンの持ち込みは問題ないですね?」
「ああ、規則書にも通達状にも小麦についての記述はあってもパンについてはないな。全く問題ないよ」
「それは良かった、では私はこれで」
東国境の町で数日間だけ小麦が出回っていた。この事はヴァスルさんに報告するべきだろう。今、この国を腐らせている原因の一端はそこにありそうだ。
183年12月11日
AM9:00
「入国の目的は?」
「移住です、キングフリクは水が良くないですからね」
「ご家族は一緒には?」
「独身ですから、仕事に集中したいですしね」
「元々イルクテージに?」
「ええ、上官の指令でキングフリクで少し仕事をね」
「……問題ないです、通ってくださいバサロフさん」
「ああ、悪いね。じゃあ私はこれで」
シルバーブロンドのサラサラとした髪にダークコートのバサロフ・ダニエル氏は悠々とした様子で検問所を出ていった。彼の去った後も濃いパルファムの香りがしばらく消える事はなかった。
PM2:00
今度レブネフからやって来たのは貧相な体つきの小男のようだった。が、目深に被られた帽子と濃い頰ひげで顔つきはよくわからない
「パスポートを、名前と国は?」
俺の問いを聞いているのかいないのか、懐をゴソゴソかき回して一通の折り畳んだ手紙を置いた。
と思うと、俺の制止も聞かずにさっさとレブネフへ帰っていってしまう。首を捻りながらも妙な男が置いていった手紙に視線を落とす。所々に散るインクの染みと、左端に描かれた小麦を交差したような絵が印象的だった。
取り敢えず中を見る、ここに置いていった以上は俺に読めという事なのだろう。
清廉のイルクテージを愛する同胞へ
決行は 2月18日フィラフルの国民大会にて
報酬は作戦成功後
あなたの仕事は我々の指示に従い仲間を通すこと
荒土に我らあり、今芽生えの時
寸間、言葉を忘れた。イタズラだろうか、それにしてはあまりに簡単すぎる。検問間への最小限の接触、この事実こそが手紙にある「我々」の思慮深さを示す何よりの証拠ではないのか。
では報告か、だがそれもできない。この内容はあまりに一方的だ、まるで俺までもがこいつらに加担しているかのように書いてある。この手紙を見せずに情報だけを伝えてもあの疑り深いアレクセイの事だ必ずその根拠を求めてくる。
ここで彼らの信用を失うのはマズイだろう、国を守るなら俺がそいつらを追い返せばいいだけのことだ。注意していれば問題もないはずだ。
その後、様子を見に来た警備隊員も適当に追い返して俺は全てを公にしなかった。
183年12月12日
AM6:00
検問所は異様な雰囲気だった。
「よお兄弟、調子はどうだい?」
微笑みを顔に貼り付けたアレクセイはひどく気味悪く、周りの警備隊員達もただ黙って俺を取り囲んでいる。この為にか、検問所も封鎖されているようでレブネフ側にも警備隊員が控えている。
「何の集まりだい、これは? 大物犯罪者でも出迎えるのか」
「んん、察しがいいな。フレムレイ長官の指示だ。ドワノフ・スワマンお前を長官暗殺の首謀者として連行する」
「は?暗殺、何言ってるんだ。そんなの噂すら一度も聞いたことがないぞ」
「大人しくしな、相手が悪い。だから俺は言ってやったんだ何度もな。
お前の生き方はこの国にゃそぐわないって事さ」
アレクセイが手錠をかけた俺の腕を掴んだところで折りよく車が到着した。助手席に押し込められた俺は左に座る顔にギョッとする。
「ヴァスル副長官! 何の手違いですか、こんなのって」
「少し黙ってろ、ドワノフ。悪いようにはせん」
アレクセイも後ろに乗り込むのを確認するとヴァスルは車を出した。西国境の町を通り再び荒野に出たところで長官は車を止めた。
「ここなら誰も来ないか。始めるぞアレクセイ」
「分かりました」
背後でガチャリという音が聞こえる。間を置かず銃声が真後ろで放たれた。振り向くのと、俺の真後ろの男が血を吹き出すのが同時だった。てっきり警備隊員だと思っていたが彼はもっと別種の人間だった。本来、この国にすらいるはずのない……。
「この爺さん、どういうことですか副長官。それにフレムレイ長官の指令って」
唐突なあれこれで大分混乱していた。ヴァスル副長官はあくまで冷静に言うべきことだけを言った。
「時間がない、とにかくお前はこれから俺の指示に従って動け。
まずはだ、この場でフレムレイ長官暗殺の首謀者、ドワノフ・スワマンは死んだ。護送中暴れた為のやむをえない発砲だ。
幸いなことにこの場には我々しかいない、処理は私が引き受けよう。火葬だからな、残るのは骨ばかり。遺族にも見分けはつくまい」
背後ではアレクセイが黙々と死体の処理を行っていた、その目はやはり軍人のもので冷ややかな中には一点の温もりも見出せない。
「お前はこれから東国境の町でパン職人の見習いとして暮らしてもらう。ついこの前の報告、読みは正しいだろう。確実にあの街には何かある、東の国境検問所を嗅ぎ回ってくれ」
自ずとジェームズの顔が浮かんだ。本当に人がいいだけの小役人だと思っていたが……。彼にもやはり何か在るのだろうか。
「頼むぞ、ここからはフレムレイと俺の食い合いだ。俺が長官のイスに座り、この国を作り変えるために二人とも協力してくれ」
ヴァスルの熱を帯びた目は、その決意を物語っていた。
PM7:00、東国境の町アルバトフの店
「いつものを頼む、来ているかね?」
「ああ、これはこれは長官。来てますよ、本当に息子を良くしていただいて」
「なに、腹心の部下というのは何処にいても良いものだ。さて、ヴァスルはどう動くかな……」
183年12月12日、ドワノフ・スワマンはフレムレイ長官暗殺未遂で逮捕。護送中の抵抗により担当官がやむなくその場で射殺。
骨は遺族に引き渡され小高い丘の上で丁寧に弔われた。
人の居なくなった検問所は程なく新たな検問官に引き継がれ物語は進む。