yasui2226のブログ

自作の小説を置いてます

いつか見た景色の中で

・登場人物の対比を意識 

 ・交互視点での情報管理

 

 この関係をどう呼ぶか知らない。ヒゲを撫でても、カマンベールは意に介す風もなく尻尾をゆるゆると振ってリビングの方へ消えていく。こうして同じ時間を共有しても、距離が埋まっているとは思わなかった。
 棚からアルバムを出して中を覗く。何度も開いて、折り癖のついた見開きに目を落とす。神社で撮った写真で麓の赤く長い屋台の列が、画角の奥からすぐ後ろの鳥居にまで続いていた。他の誰かがいたのか、人に頼んだのか。二人で行ったはずのこの夏祭りの写真に、彼女と俺の二人がきれいに収まっていた。
「またアルバム見てるの、そろそろご飯できるよ」
台所の声に振り向く。この春から彼女は近くのアパートに暮らし始めた。ちょくちょくこちらの部屋にも来るから、彼女の作った写真アルバムは俺の部屋にある。余白も多いページを気まぐれにパラパラとめくって閉じる。
「今日はイワシの生姜煮を作ってみたの。カマンベールはもうご飯食べてるよ」
台所から、平皿を片手に出てきた彼女。テーブルに皿を乗せて、子供をあやす母親の手で黒猫の背を撫でた。皿の中に顔を伏せていた奴は、気怠そうな速度でふるふるとその手を払うと再びキャットフードに集中を始める。
カマンベールは、3年くらい前に保健所で俺がもらってきた。当初は大人しかった子猫も、環境に慣れてしまえば多くの先例に習う。飼い主をバカにしたようなふてぶてしい態度を隠さず、その主従は完全に逆転したように思えた。ただその毛並みだけは滑らかで、ツヤのある真黒に仕上がっている。
「というか、アルバムまで持ってきたの。気に入ってくれているのは嬉しいけど、ご飯が冷めちゃうよ。写真の話は食べた後にしよう」
俺は軽くうなずいてアルバムを傍にやる。広々とした木目のテーブルに2人向かい合って手を合わせる。白米、イワシの生姜煮、そしてレンコンのマヨネーズ和え。三品目を造作もなく用意できる辺りに女性の細やかさは現れるのだろう。よく味の染み込んだイワシをつまんでは白米を口に運ぶ、カマンベールの世話も最近では二人での交替になってきていた。ボウルの中を空けたらしいあいつは、今度は俺の足に擦り寄って来る。一人の暮らしも長い、ある日の彼女の来訪はそれまでの生活を大きく変える出来事になった。このまま、彼女はここでの暮らしを続ける気だろう。
しばらく頃合いを見計らって、おもむろに口を開いた。まだ食事中なのにと彼女は困ったように視線を泳がせて笑ったが、諦めたふうに首を振って言葉を待った。俺はアルバムを開いて、五年前の彼女が見ていた景色に目を細める。こうして二人で思い出を話して、あの一年を上からなぞるような夜がもう何日も続いていた。
 そもそもは、俺が実家に帰ってきていたからその再会は叶った。普段は街にいない俺は何かの義務感で故郷の近く、小規模だが堅実な会社に就職していた。そこに勤めて一年弱、穏やかな同僚たちと馴染みやすい上司。少し退屈になるけれど適度に骨のある仕事をこなしている内に、貼り付けられたように不信が夜を覆っていた。高山、高山と名前を呼ばれてもそれが自分でなくてもいくらでも変わりの効く、没個性な音に感じる。
夢を諦めたのはいつだろう、穏やかさに慣らされていたのは、数年間休みを見つける度に各地を巡った意味は。これまでの過程がどうあれ、何も問題なく機能してしまう自分自身をある日、剥ぎ取りたくなるように嫌って。その日に会社を休んだ。春頃で一年遅れての五月病なのだろうと職場では言われていたらしい。
人間、ヤケになっても割りに考えているもので。めちゃくちゃに車を走り回していたら、アパートから二時間ほどかかるはずの実家近くの川に着いていた。見慣れた景色が更に神経を逆撫でしても、それで帰るのも却って癪だからドライブキーを抜いて柔らかな土手を革靴で踏みつけた。春になったばかりの空気は軽く、淀みない青空の下で吹く風が鼻の奥をツンと刺した。
 草を踏み分ける音がして、なんとなく視線を送る。首の向いた先には見覚えのある顔の女性がデジカメ片手に仁王立ちしていた。彼女はそのまま何も言わずに俺の傍に立った。カメラを顔の前に構えると、彼女はファインダー越しの景色を覗きこんだ。
頬から顎にかけて緩やかなカーブを描く彼女の見知った横顔は、形よく尖った顎に薄く伸びた微笑みがこちらに温かな印象を与えていた。あの頃の情熱を、そこから取り戻そうとするようにじっとその横顔を見つめる。
「写真、まだ続けてるの」
「そりゃ、ね。好きだし、趣味だし」
「まだここに住んでいるとは思わなかった。家には帰っていないんだね」
「ここで仕事見つけたから、君こそ街を出たんじゃなかったの」
「実家がここにあるから、帰らない理由もないしさ」
「そっか」
 彼女、狩野とは大学のサークルで知り合った。狩野渚といえば、俺たちの間では相当に評判高い一人だった。男との距離が近く一人の時が多いので相当にモテた部類だろう。彼女にとっての俺は数いる同世代のうちの一人でしかなかったようだが、俺の方は違った。ただ、狩野の大人しそうな雰囲気の下に潜り込ませた激情は、普段接している彼女には知らない面がある事をむざむざと思い知らされる。いつまでも踏み切れないでいた俺にはそれが更に高い壁に思えた。
「彼とは相変わらずなの」
「あぁ、高山が知ってるアイツとはもう別れたんだ。吹っ切りたくてさ」
淡々と話す口ぶりからは、当時のような情念に振り回される感じはなかった。何度か大きな波を乗り越えたのだろう。
「高山って前からそんなだったっけ。ほら、笑って」
狩野がこちらにレンズを向けた。思わず固くなる、写真は苦手だった。急に自分の顔が見られているということを意識してしまい満足な表情を作れなくなる。
「ぎこちないなぁ。まぁいいや、しばらくそうしててよ」
そういった狩野は近くから、さらに遠くから俺を被写体に写真を撮り始める。ずっとそれを見ているのも、なんだか決まり悪くてカメラへの視線を切って再び川の流れに意識を向けようとする。春になったばかりの風は潤いなく、ザラザラした感触にどうしても集中できない。元より、狩野を目の前にして平静を装うなどできるはずもなかった。
「ねえ、そういえばさ、あの時の言葉。あれが嘘じゃなかったら、今でも私のことが好きなの」
そう問いかけながらも、以前カメラはこちらを向く。発言の意図が掴めないのは前から何も変わっていなかった。それとも、彼女を前に乱される俺が変わっていないだけなのか。その黒く丸い大きな瞳で心の中を覗き込まれるような雰囲気に心の底の燻りがチラチラと光る。
「好きだよ」
観念して、短く発したが変に間延びしたような、不必要な長時間その言葉に向き合ってしまった。
「良かった」
 わからなかった。狩野の考えはどこまでも読めない、言葉の余韻を楽しむように、ゆっくりとカメラを下ろした狩野はニコニコと笑っていた。
「いい顔してたよ、最後」
なんとも、表情の読めない笑顔で狩野は続ける。
「帰ろっか、少し歩こう」
歩き出した俺の背中を、河川敷の柔らかい風が押した。

 


 さして広くもない私たちの町で、電信柱と街灯が常に両隅を埋める煩わしさは河川敷にでもでないと気晴らしなんてできない。たまたま見つけた見覚えのある背中に、声をかけてみようと思ったのもちょっとした気まぐれでしかない。なにせ二人の交流は二年前から自然消滅、それでもその気が起こったのは昔の高山の言葉を覚えていたからだろうか。
 でもやっぱり、高山は退屈な人だった。街に戻る道すがらに聞いた高山の話はよくまとまってはいたが、終始自分のことばかりで、どうでもいい不幸自慢が止まらない。こんな田舎町から抜け出せたんだから、もっと嬉しそうな顔をしてもいいのに。既にここに腰を落ち着けた私にはわからない感覚のように思えた。ただ、彼の目だけはじっと私を見つめていたから本気なのだということはわかった。
私が写真を撮るようになったのは唐詩で描き出される風景。この、心情と絶景が交差する世界を自分の手でも生み出したいと思ったから。
いつもは眠るだけの古典の授業、その日何故か私は起きていて、その時に虞という女性に出会った。虞美人は、秦代中国の女性で楚の項羽の愛人だった人。最期は窮地に立たされた項羽の為に自分の命を投げ打ったとか。
何かと流されやすかった私、その時は特に恋多き多感な少女でもあった。温もりのない家庭で、自分の居場所をどこかに探していたのかもしれない。あの時も丁度、三度目の彼と別れた直後で男の移り気の薄情さにうんざりしていたところだった。向こうから声をかけて始まった関係も、事が終われば用済みとばかりに捨てられる私の有様は、安い売女かそれ以下。見下していた母の屈辱が今になって私に降りかかる。母のような女にはならない、それだけは、最初から決めていた。
 そんな時だ。唐詩によって紡がれ描き出される風景は、悠久を生き、いつまでも色褪せぬ美しい世界なのだと知った。
授業で出会った項羽の歌は、今でも心を締め付けて虞の、項羽の悲痛に私を誘う。

力は山を抜き気は世を蓋う
時不利にして騅逝かず
騅逝かざるを奈何せん
虞や虞や汝を奈何せん

最大の危機に虞との決別を告げる項羽と、運命を受け入れて自刃に倒れる虞の両者を思いあう美しさに私は囚われた。
互いに愛を思い合える、そんな相手と巡り会えたら。
願いだけが膨らんで、あなたは日に日に素敵になっていく。だけどあなたは見つからない。歪な理想は少しずつ私を崩して、埋めてほしい大きな穴は願いの分だけ広がっていく。いつまでも塞がれない、満たされない私の空洞。ただ寂しい、一人だけの身軽さは考えられない分だけ余計に私を動かす。
 河原からの帰り道は、少しずつ落ちていく日を、目を細めて見ている高山の姿だけ少し印象に残った。終始何かを淡々と語っていた彼に、うんざりしていたのが大きい。ただ、高山には昔から何かと話しやすかった。同性の友達なんてほとんどいない私は話を聞いてもらえた経験があまり無くて、辛い時期にはよく相談に乗ってもらっていた。
 せっかくまた会うようになったのなら、今度は車でどこか遠くへ行きたいと思った。気心の知れた、というほどではないけれどこの歳になったら新しい友人なんてできないから。ある種、新鮮だけれど保証された出会いという見方もできる。
「高山、車持ってたかな。行きたいところがあって、今度一緒に行かないかい」
「どこ」
「少し遠いんだけどさ、見晴らしの良い高原だよ。風に揺れてる柔らかい緑っての、キレイだよ、写真撮りたいんだよね」
「それってさ」
 高山の目が、期待に揺れるのがわかった。彼は昔から優しい。だから一人で抱え込むし、一つの物事にいつまでも、いつまでも悩み続けてしまう。それを煩わしいと疎んでいたのが学生時代、今はそんな彼の気持ちも理解できるようになりつつある。彼と会わなくなってからの2年間、それまで吐き出してきた諸々を受け止めるものが急に消えてしまったからだろう。立てかかっていた壁を急に失った時計に等しい。それまで自立していると思い込んでいたというのもある。だからなのか、彼の気持ちにはむしろ近づいた。他人を受け入れるようになってきているのだと思う。
 でも、環境が変わっても私は私だから、結局どこでも同じように悩んでいる。彼の思いを必要以上に分かっていたから、私は彼の言葉には応えなかった。放してしまうくらいなら、この関係を長引かせよう。自然に浮かんだ選択肢は柔和な笑顔を形作り、彼の言葉を独り言のように聞き流した。
 何も言わない私にしびれを切らしたのか、それとも怖気づいたのか。彼はそっと視線を外し、遠く線状に引かれた夕陽の名残りを焼き付けるように、前方まっすぐに向き直った。私も同じ方に顔を向ける、いよいよ彼は諦めたように声を絞り出す。もうすぐまた、夜が来る。

 

 用意したご飯もやっと食べ終わって、今日はお酒でも飲もうよと一旦話を休めて冷蔵庫に向かう。瓶を這う空気がガラスを曇らせて、いくつか水滴が流れ落ちるワインを取り出した。再びリビングのドアを開ける。彼が黒猫と戯れる姿は、昔をよく知る私だからこそ微笑ましく映るのだろうか。膝に乗って欲しいのか、彼が何度か毛並みを撫でてカマンベールを誘う。ただ、独りよがりにガシガシと腹をかいてしまって、いつも彼はそのチャンスを逃して。結果、私がこの子を撫でてあげる。当初から折り合いは悪いみたいで、それを見越していたのか。名前を決める時も毛並みが黒いから、こいつの名前はカマンベールだ、なんて。ひねくれたあなたに好ましさと、それ以上に運命的な感情を思って、惹かれた。今ではこの時間も悪くはなかった。彼との思い出を追体験できているようで、更に深く深く彼の思考に身を委ねていく。このリビングで時計を進ませている程、私たちは溶け合っていくのだろうと、そんな夢想で幸せだった。夢の中に似た心地で、動き出した彼の口を目で追う。
 期せずして成立した君とのドライブは、日が明けるかどうかの早朝から始まった。軽い眠気をあくびと一緒に噛み殺しながら、未だ肌寒い外気に顔を晒して潤んだ目を乾かす。いい気なもので、自分からこの時間を指定した君はまだ早いからと、助手席に座るなり眠りについていた。
 車のない明朝の高速。助手席からの軽い寝息も相まって自然、自然に昔の自分へ引き戻される。静かな朝は自分自身を見つめ直すのに向いた時間だと思う。柔らかい風呂の水にゆっくりと体を沈めるように全身の力が抜けると、周囲を取り巻く外圧が潮の流れさながらに引いて行き、そしてゆっくりと心地良い浮遊感が訪れる。
学生時代は窓の外の音がとても大きく聞こえていた。部屋の中は俺の他に周囲の生活音だけ、狭いはずのアパートの一室は不必要に広く感じられた。表情のない顔ばかり見ていれば当然見える景色は狭くなる。それが嫌でよく遠出をしていた。海辺で、山頂で、ホテルのベッドの中で。遠く空が明らむと籠ったような静けさから間遠な雑音が聞こえはじめる。そのひと時は広い大きな世界に連れ出してくれるようで。間違いないのは、あの日の海、あの窓の朝焼け、輝く幾つもの朝の中には俺の求める何かがあった。
 前方に構えていた山が開けて、白い太陽が持ち上がる。進行方向から真っ直ぐにぶつかる光が彼女の横顔を照らした。そっと盗み見て、また、ため息をつく。
彼女を意識しはじめたのは、会ってからそう時間も経たない日だった。講義の同じ列に座った横顔の、目を細める様子、薄い唇を尖らせて喋るその姿に惹かれた。
 たまに顔を合わせれば、友人も交えて話しもするけれど、彼女の話はいつも自分の嘆きと男への不満が押し寄せる。どこかで踏み切ろうと決心はしても、話を聞いていると決まって彼女を慰め励ます。居心地の良い停滞を一度は変えようとお互いの卒業の間際に告白もしてみた。けれど、その時には既に彼女は新しい居場所を見つけていた。それをきっかけに気まずくなって2年、これまで連絡も途絶えてしまっていた。
 高速を下りて、長い山道で車が揺れ始めたのを機に彼女が目を覚ます。
「さすがにまだ着いていないか」
「もう少し、ナビだとあと十分だね。俺たちは何、今から山登りでも始めるの」
「この前言ったんだけどな。草原だよ、見渡す四方が柔らかな緑。日本だと珍しいんだよ、自然草原。今から行く所は年降水量が少ないんだって、ネットにあった」
見晴らしのいい草原、図らずも一人旅で目指した景色に重なった。目指していたのはいつも、いつか向かうべき所まで見通せる、そんな場所だった。
「あ、分かってないな。こう見えて私、気遣ったんだよ。ストレスにやられた高山を少しでもリラックスさせてあげようって」
「この前っていうならさ、その時は写真が撮りたいって言ってたろう」
「ほら、やっぱり覚えてた。カマかけてたの、分かった」
 薄い唇を伸ばして彼女はアハハと笑った。のらりくらりはぐらかされているだけなのかも知れない、けれど昔のような関係が帰ってきたようで。俺も彼女につられるようにして声を上げて笑った。
 車は、草原を望む駐車場まで来ていた。山ばかりだった周囲もいつの間にか変化して、視界にはひたすら大きな草原が広がっていた。想像とは違って平坦ではなく、起伏でその全体が波打っている。大きな風がサッと過ぎると、点在する丘の表面がさざ波に揺れる。
「意外だな、草原って言われたからもっと平らなのかと」
「平原ばかりが草原じゃないからね、特にここ日本だし。それに起伏がある方がなんだかキレイに思わないかい」
それもそうかと簡単に丸められ、整備された遊歩道に足を踏み入れる。木で組まれたその道は蛇行してうねり、こんもりと連なる丘の外周を縁取りながら奥まで伸びている。夏を連想させるムッとした濃い空気が顔に押し付けられる。若草の優しい緑でも、その重なりから排他的な自然の原色を嫌でも感じてしまう。その場にいながらも遠のいていくような場所、そんな気がした。
彼女はこのために来たからと早速カメラを取り出す。嬉々とした顔をして目の前の緑を黒いレンズに写し始めた。情熱をまっすぐに見つめる眼差し、そんな彼女の隣にいるのがとても好きで、そこから彼女を愛しく思うようになった。
告白したあの瞬間も彼女はとても輝いていた。でも、俺が彼女に光を見た理由は他にあったのだといつの頃からか確信していた。俺は何よりも、彼女のあの顔、熱意を目に宿らせるその横顔が好きなのだろう。
振り返った向こうの駐車場がもう見えなくなってしまっても、一面の夏らしさは失われなかった。熱心にカメラを構えていた狩野も一段落付いて隣を歩き始める。そういえば、撮るのはだいたい風景写真だよな。ふとした思いつきをつぶやく。思い返しても彼女が撮るのはそのほとんどが風景。人物を写すのはほんの気まぐれに、という印象がある。
風景写真を撮り始めた理由か、何だったかな……。あんまり理由は無いかもね。ただなんとなく綺麗だからって、それじゃダメだよね。
「そうだな、納得してもらえるかは分からないけど。私、学生の頃に一人で海外旅行に行ったんだよ」それが実質、景色の写真を撮り始めた最初になると思う。ふっと息を吐いて物憂げな顔をした彼女は言葉を続ける。
「キッカケはさ、とってもシンプルでその時の彼に振られたから。男なんて最後に言うことはみんな同じね。ごめん別れよう、俺のせいじゃない、ただ少し渚と居る時間に疲れたんだ、なんて。早く他の女に乗り換えたいだけの口実が、本当に卑怯」
 目を伏せる彼女はしかし、意外なほど率直に過去を受け止めていた。寂しさを埋めるために病的に愛情を求めた少女は、屹立とした自信を打ちたてて青苦い女性に姿を変えていた。
「それでも、これがかなり応えてね、高山にも何度か相談したかな。もうどうにでもなれなんて思うようになって、それで思い切ってアメリカに行ったの。目指すはバーミリオン国定公園ザ・ウェーブ、小さい頃にテレビで見てからずっと憧れてた。あの赤い大地に行けば私は、すごく強い人になれるから。そうすればつまらないことに悩んでる自分も、過去も、全てを笑い飛ばせるからって」
アリゾナに着くと、今まで砂漠なんて見た事なかったからだけど、映画の向こうみたいなこんな景色が本当にあるんだって。海外に行くのも、一人で旅をするのも全部が初めてだったからなんだろうけど。降り立った時は無性に泣きたくなったのが今でも強烈な印象になって残ってる。でも、すぐに国立公園に入ったから涙は別の意味合いに変わったんだけどね。
「一週間の滞在期間中に、実際にそこに向かえたのは三日。その数日もザ・ウェーブを見に行くための抽選に費やして、結局目当ての場所には辿り着かなかった。日程が残っていた時は、暑かったし、モーテルに戻って寝ていたんだけど。でも、三日も同じ建物に缶詰なんて退屈なだけでしょう。最後は流石に我慢ならなくて気のすむまでアクセルを踏み込んでアリゾナの砂漠を突っ走ってやった」
「何時間かそうしていて、疲れた頃になんでもないような場所で車を止めたと思っていたんだけれど。異国の大地に案外私は舞い上がっていたみたいで、何もない砂漠に向かって熱心にカメラを向けてた。我に返って初めて、汗で汚れた自分の肌に吹き付けてくる砂に気がついた。ジリジリとした細かい痛みでしばらく、なんでこんな事やってるのかなって途方に暮れたわ。岩場を歩くつもりでトレッキングシューズも履いて来ていて、足もすごく重かったし」
「高校は陸上部だったんだろ」
「スプリンターに持久力を期待しちゃダメだよ。気温も高くて、履いていかない方が疲れなかったかもって本気で思ったくらいだから」
それで、と彼女は一呼吸置く。気持ちのいい風が吹いていて、居心地の良い午後が過ぎていた。再び彼女は口を開く。
私が唐詩の情景に憧れるんだっていうのは前にも話したかな。
雄大な景色、特に自然の作り出した大規模な造形なんて、唐詩にはうってつけな題材でね。あの時に浮かんだのは南楼望、なんて名前を言っても分からないか。

国を去りて三巴遠し
楼に登れば万里春なり
心を傷ましむ江上の客
是れ故郷の人ならず

故郷から遠くに来た私の前には、素晴らしい景色が広がっているけれど、ここが故郷ではないことも強く意識してしまう。アリゾナの私とちょうどよく重なるでしょう、唐代に詠まれた歌なんだよ。それでも色あせない、人は景色から手の届かない永遠を感じとるの。この時の、次第に家が恋しくて周りが頼りなくなっていく感覚はいつも大切にしてるわ」
「景色を撮り始めたのにそんな、大した意味なんてないよ。結局後から全部ついてくるんだから、その時やりたいことをやっていたら自然とこう収まった。案外みんなそんなものじゃないかな。長くやるから意味がついてきて、私の一部になる」
 そういう訳だから後付けになるんだけど、と前置きを置いて彼女はその先を続けた。
唐詩の中にある風景はどれも、とても計算されてる。創作だから、あたりまえだって言われたらそうなんだけど。情念を景色に込めて描き出された風景は、写真に通じるものがあるのかなって。思惑的なものが伝わるからなのか、写真も結局人の手を介している表現だから。光も影も、構図も何もかもを計算して撮るんだけどね。最後にどうしても越えられないジレンマがあってさ。究極的な景色の中ではカメラマンとしてここにいる自分自身の存在すら邪魔になる。私の写真はアリゾナのあの砂漠で始まっているけれど、きっかけはそのジレンマにぶつかったことが大きいの」
 そう言って、カメラに内蔵していた写真を見せてくれた。アリゾナで撮っていたという内の一枚なのだろう。夕闇の迫る遠景に岩の上に乗る山羊の影が強烈な一枚だった。
「綺麗よね、文句なく生涯の傑作になる写真だよ。でも私は、虚しいんだけど、アリゾナを思い出す時にこの写真は見ないことにしてるんだ」
途方もない自然を追体験するのに、私の影は邪魔なだけだからね。狩野は力なく笑って腰を上げる、俺も後に従った。
冷やしただけの水を無性に美味く感じる時がある。喉の奥を支えさせる熱い塊が腹の底に沈み込む感覚は、緩んだ頭に比例するように平静な今を引き寄せる。狩野に会いながら、客観に立つ一面が残るのは彼女の性質をよく知っていたから。狩野の選ぶ男たちを聞いていれば、俺ではけして彼女を満足させられないのはよく分かっている。でもそれも最後まで、彼女を諦める理由にはならなかった。
「それでか」
「何にそんなに納得したのよ」
「君が唐詩にこだわる理由。どこから引っ張ってくるのかとずっと疑問でさ」
「初めから聞けばよかったじゃない。まどろっこしいなぁ」
「怖くて聞けない話ってのはなんだか、いつまでも引っかかるんだよな。写真のこともそうだし、君の気持ちもそうだ」
呆れたように彼女は首を振るった。
「そんなことだから、君の周りはあまり人がいなかったのよ。いつ話しても同じ話題で、つまらない話しかしないんだから。テープの逆回しが完全な世界に戻れるわけじゃないのに、何度も何度も空回りさせて、擦り切れて、そうやって台無しにする。君が、さも大事そうに抱えているその画面。でも、映っている映像なんて誰しもが持っているその辺りのVHSと何も違わない。自分だけが特別で、世界の方から救いの手が伸びてくる。そんなの君の恥ずかしい傲慢と厚かましいだけの期待が見せる幻影に過ぎないんだよ。」
「別に特別なんて思ってるわけじゃない」
「人が見ている君の印象だよ。何も毎回、理屈ぽくネチネチとした話をしなくってもいいじゃない。黙っていればよく話を聞いてくれるのに、なんでそう周りくどい話し方しかできないかな」
ほっと息を吐いて、休戦。他人の意見が違うのはお互いに理解しているからつまらない言い合いはしない。この調子でやってきていたから、大きく考えが違う割りに大きな対立はなかった。歩き疲れたのもあって、車に戻ろうと足の向きを変えた二人に、狩野の言葉がポツリと落とされた。
「昔の彼の話なんだけどさ」
 ずばり、ずばりと本音で切りあったから引き出されたのか、それでもその一言が導き出されたのをとても意外に思った。彼女はこの類のことはあまり話さない、それも酒を助けに無理矢理引きずり出すから余計に要領を得ない。こんな風に改まって話を聞く機会はこれまでには無い事だった。それでも俺は表情には出さない。その場面では大抵、悲しさか抱え切れない嫌悪かが彼女の背中を押しているのだと知っていた。
「好きで好きでしょうがない相手っているじゃない。私にとってはその人がそうだった。ようやく付き合えた時は本当に嬉しくて、日常が幸福に染まっていくのがよく分かった。でも、そんなのって長く続かないのが世の中みたいでさ。突然だった、彼から急に別れようって」
「当然、形振りも構わずに必死に止めた。すがりつくってそう言うことなんだろうね。それまでの私からは信じられないくらいの力で、彼の袖といわず足といわずしがみ付いてさ。そうしたら彼もなんとか折れてくれて、君がそうしていたい間だけ側にいようって言ってくれた。その時は別れたくないのに必死で、何よりも嬉しい言葉だった。でも、その後の日から自分の中まで冷めていってね。それなのに、しばらくはそんな関係を続けてた。当時から冷めきった関係に意味なんてないと思っていたけど、それなら自分の中で気持ちが消えた時には別れてないとおかしいでしょ。想い出は本当に厄介よね。振り切ってもそれでも、心の奥深くから私を絡め取って逃がそうとしない。未練だったのかな、あの時の気持ちが未だに分からない」
「君がそんなことを俺に言うのは、俺が決まって慰めて背中を押すからだろう。君にはすでに俺の気持ちは伝えてる、いたずらに肯定はしないよ、いつも悩まされていたからな」
「その上で、俺に言わせれば君の生き方はあまりにも変わることを恐れている。相手の男を語る時には必ず、君自身の心を語って相手を見せない。そんな話し方をするのは、今の自分を受け止める存在を求める心が裏にあるからだよ。もしかしたら、そもそもの君が相手を見ていないからかも知れないけど」
「珍しく説教くさいことを言うのね」
「いったい何度その類の君の話を聞かされてきたと思ってるんだ。こっちにもそれなりに抱えている意見はあるよ。……それとも、言い過ぎだったかな」
「悪くはなかったよ、最後に弱気にならなければね。自分の言葉に責任ない人には返事の方はもう少し保留かな」
ひょいと俺の肩を小突いて、逃げるように狩野は走り出した、不意を突かれ慌てて俺も後を追う。アスファルトとは違う板敷の歩道は、一歩踏む毎の鈍い音が二人の背中を追い立てた。
帰りの車内での狩野は妙に気分が良かったらしい。
「心晴れる景色だったでしょう。たまにこうやって何もない場所を眺めて、歩き回るのもなかなかいいものじゃない」
「退屈はなかったよ、景色も良かった。よく晴れていたのもあって空が青かったな、緑には映えるね。あんなに高くて気持ちのいいのは」
「気にいったならさ、今度は北海道まで行こうよ。ここなんて比較にならないくらいに途方もなく広いから。小さい頃には何度も行っていてさ」
 道路は、その先が見えないくらいに長くまっすぐで。若緑に包まれた柔らかい大地が、歩くのも走るのも楽しくしてくれる。これまで、彼女の幼少期の話なんて聞いたこともなくて、俺も興味が尽きずに色々と話して小一時間、彼女の思い出の中の土地を旅した。

 

 

「こんなところにあったんだ」
テーブルの反対から手が伸びてきて、ページの間に挟まった写真を取り出した。夜の堤防がそこに写っているが、他には何もなく毛色の違う寂しい写真だった。
「夜の海、ここでの出来事ももう何年も前のことになったのね。あのすぐ後だったかな、私から彼に会いに行ったの」
 そうしてナギサはポツリポツリと話し始める。ワインも入って舌も頭もよく回って淀みがない。その頃の彼女も、この話も聞くのは初めてだった。
隣町に行く時はいつも雅人さんが迎えに来てくれる。彼はその街の人ではないから、誰かに姿を見られても、そう的確な噂を立てられる事はなかった。特別狭いわけではなかったけど、誰かの浮ついた話を放っておけるほど無関心になれる街でもない、つまらない場所だったから。
静かに車が走り始めると雅人さんはギアチェンジに手を掛け、トップスピードへ向けアクセルを踏む。時速八十キロで街並みが過ぎていく。河川敷を走る頃、トランスがかった私は一つの昔話を始めていた。
「中学くらいのことだったと思う。母はとても奔放な人で、学校が終わって家に入ると泣き声が出迎えてくることなんて幾度もあった。あまりに日常的で大して気にも留めなかったんだけどある日、何か無性にイライラして聞いてみたことがあるの」
そんな生き方であなたは満足なんですかって。母のあの、可哀想にこちらを見据える眼差しは未だに鮮明に思い出すことができる。いつもいつも、家に来る男の人には溶け切った媚びた目しか出来ないくせに。私にばかりは見下すような、優越感に浸るような目を作る。それから意識返しか、たっぷり時間を置いた後に、更に母はこう説くの。
「あなたはまだ若くて、人の情熱の中に生きる意味を知らないから他人事のように見ていられる。だけど一度、私たちがその味を知れば、当事者以外にはいられない。あなたは勘違いをしているようだけど、人の不幸というのはただ一つ、短い一生に熱情を知れるかどうか。ただそれだけで決まるものなのよ」
だから私の人生はそのまま一緒にいた人達との時間の積み重ねなのだと、とうとうと続ける。思い返すと母は自由な恋を愛する人だったけど、決してそれを振りまくようなことはしなかった。常にその時の一人を愛して愛して、そうして捨てられた。愚直な彼女だから、自分の中に一つでも信じられるものが欲しかったのか。年を重ねてもその度に、こうして断片的にこの時の事が思い出される。それは、これまで幾度となく繰り返されてきた営みに、それでも必死にすがりつく彼女に、幼い日の私でさえある種の悲しみを覚えていたのかもしれない。
「雅人さん、私の方を向かないよね、顔を見るのを避けているみたい。いつ振り向いても目の合わない辛さって考えたことはある。私ばっかりあなたを求めているみたい。本当、嫌になるよ」
「ねえ、私、本当にあなたの考えが分からない。一度、私のことが好きだと言った。アレも嘘だったなんて言わないよね。あなたはいつから変わってしまったの」
こんな呼びかけが、無意味なことは十分に分かっていた。鼻をくすぐる香ばしさで彼がタバコに火をつけたのだと知る。窓から雅人さんに向き直る途中で、彼の伸ばした腕に目が止まる。灰皿の上でタバコを持ったまま、骨張った細い指は止まっていた。私は、じっとその煙を目で追う、視界がいくらか白く霞んだところでやっと雅人さんは話を始めた。
「やり方を間違える事は誰にでもある失敗だし、それをとやかく言われる道理はない。けれど、それを受け止めようとせずに何事なく進む、というのは違う。渚、君は素敵な女性だ。最初は真実そう思っていたし、今でもその判断は間違っていないとよく分かっている」
でも、と雅人さんは続けた。左手の2本指に挟んだタバコは、吸われることの無いままに灰を落とし続けている。程なく、ダッシュボードに置かれた灰皿でそれはもみ消された。
「恋人同士というのは、かなり特殊な人間関係だよな。相手のことを本当に理解して付き合い始めた、と言うような奴は、惹かれ合って始まった関係の理解などできないだろう。意外性の連続が良くも悪くも二人を変えていくんだからね」
二人とも口をつぐんでしまって、いっそ気持ちが落ち着くほどに車内は静かになった。
ネオンサインの陽気な煌めきは、対岸を蠱惑的な街へと彩る。町と街を繋ぐ橋は、白い輝きをたたえた巨塔。おおよそ三百メートルのこの道は彼の女としての私の自負を強く認めさせる象徴だった。
駆け抜けるのは一瞬。そうであっても橋を越える意味は私の中にすでに深くまで刻まれていた。少し油断でもすれば、簡単に甘い気持ちが溢れ出してしまいそうで。私は嫌がる自分から無理矢理にでもその言葉を引き出さねばならなかった。
「それなら私を騙しての今までが、間違いだったんじゃないの。私たち、もう終わりかもね」
その後は穏やかな時間だった、前から雅人さんに思いはなかったのだから仕方がない。私の側についに限界が来たのだ。突き放された時に決意した永遠は、こんなに短い時間じゃないと思っていたのに。
 人の気持ちも知らないで、涼やかな顔を崩さないこの人に無性に苛立った。駅近くのホテルに着くと、腕を組ませて無理矢理に地下のバーまで引っ張った。
 彼と飲むのはいつもここだった。初めの頃の緊張感は適度な心地良さにすり替わって、今ではバーテンの初老の男性も顔馴染だ。黙って座っても、ちゃんとお酒を置いてくれる。カーディナル、ここで飲むようになってから知ったカクテルで、元々は雅人さんが好んで飲んでいたように思う。痺れるような渋みの赤ワインに舌を震わせつつ、一気に流し込んだ。いつもこの場所で、同じ人と飲むお酒なのに、今日は少しそれを甘く感じた。
白い腕を彼の方に伸ばして、タバコを不意に抜き取ると着火口の匂いを嗅いだ。はっきりとイグサの香りがして、幼い日に遊びに行った祖父の家の畳を思い出す。その頃はまだ両親とも揃っていた、そんな記憶が薄らとある。父方の家で、北海道にあった。釧路の家だから随分長い間車に乗って向かう。でも、そんな時間も母の血は全てを台無しにする。
 強かに酔った目でワイングラスを恨めしく睨んで、その実グラスに映る雅人さんを見ていた。酔いが回ると、カウンターの上で組んだ腕に頭を持たせかけるのが悪い癖だったけど、彼はいつも私の空いた肩に上着をかけてくれた。カットソーからのぞいた素肌に触れる布の感触は、柔らかくまた温かい。それなのに、タバコの煙に紛らした人工香料の甘い不思議なこの匂いには、もう出会わない事を確信していた。噛みしめるような痛みがじっとりと胸を覆う。知らず溢れ出した涙を止める方法なんて無い、私たちは勘定を済ませてそっと部屋に戻った。
 灯されたテーブルランプで、部屋の柔らかい影は隅へ隅へと逃げていた。抱きしめてくれるような夜の闇は、未だ遠い。雅人さんは部屋を見回す私をベットの上に座らせていた。そうして自分は近くの椅子に座るでもなく、後ろの壁に背中を預ける。彼の声音を頭から浴びて、見上げているしか無いこの感覚はむしろ居心地よく、何度目か分からない彼への自分の愛を確かめることになってしまった。この思いが無用にも私をさらに苦しめているのに。
「騙す、というのは誰に向けての言葉だろうね。君は聡い、気取った態度はすぐに萎んでいくのはよく分かってるだろ。自分を悲劇のヒロインに祭り上げて涙を流しても、失った時間は返ってこない。君の救えないのは、それでも尚、誰かには愛されているということを信じて疑わない。そのどうしようもなく肥大した自己愛に他ならない」
「変わっているのだと思っていた、現実をどこかでは受け止めて自分の感情に向き合っているのだと。でもそうじゃない、君はただ目の前の相手に受け入れられたいだけだ。信条なんて持たなくて、代わりにあるのは母親への子供のような不満ばかり。僕の見当違いだったようだ」
「どうして」
 どうしてそんなに酷いことを言うの。言葉尻は涙に呑まれて、もはや言葉にはならなかった。これまでが本当に嘘だったんだ。これが、雅人さんの本心。
 最初、母が泣いている理由がわからなかった。それでその訳を聞いて、母が泣くのを見るとまるで自分の未来を重ねるような、そんな悲しさを抱き始めた。でも今度は、年齢が上がるにつれ母をひどく嫌うようになった。惨めさを覚えたからだ。母と一緒くたにして自分を悲観の中心に置くと、私の中で他ならない自分自身を憐れむような気持ちが持ち上がってくる快感を覚えた。それは、私が今まで大切にしていた自負をも台無しにするようで、反発するように母への嫌悪が溢れた。自分可愛さに流す涙と、惨めさに泣かされた涙は決定的に違う。後者の場合にはもう、手元には何一つ残っていないのだと漠然と悟っていた。
 雅人さんは好きだけど、成立しない恋に意味はもう感じられない。他の女を愛す姿は、想像もしたくはない、でもこんな思いを抱えては、もう愛することはできない。卑怯と叫んでその場を立ち去りたかったし、振るなら尚のことそうして欲しかった。もっと唐突に理不尽に立ち去って欲しかった、それなのに彼はわざわざ私を傷つけてから別れようとしている。
否定に先立つ感情は失望、どこかで私は彼の期待に応えられなかった。今のこの位置がそのまま私たちの関係なのだと、その時ようやく理解した。いつも雅人さんは私を値踏みしていた。その足元で私は呆けたように口を開けて与えられる何かに期待していた。そんなことだから、彼の中での私という選択肢は消えてしまったのか。再び目頭が熱くなった。雅人さんがこちらにハンカチを差し出したが、それを黙ってとどめて私は部屋を出た。惨めだった。
 駆け抜けるようにホテルを飛び出した。繁華街の、それも特別に明るい一角から出るから、周囲は当然だけど暗さを帯びていく。真昼のような光の照明とネオンで力強く演出されても時間はもちろん夜。ふと見上げた空、このシャンデリアみたいに広がる星空を床に叩きつけてしまいたいと衝動に駆られた。思えば、あのバーの店内を想起していたみたいでため息が溢れる。でも、その夜はそうして怒りに身を委ねていないと、きっとその辺りでへたり込んでいたと思う。それだから、地に落ちた影の当然なまでの黒は今の私にはむしろ親しみが深くて、気持ちを落ち着かせるように足先もそちらへ向いた。奥へ奥へと暗い路地を選んで歩いて、自分の靴音を黙って聞いていた。
こんなハイヒールだって、本当はもっと別の思いを持って選んだはずなのに。けれども私では装いきれない冷たさが、カツカツという無感動な響きから感じられて小気味よかった。何本かの岐路を過ぎると唐突な明かりで目が眩む。駅前の通りまで来ていた。
ここまで歩いても、まだ日付が変わっていなくて、酔客を捕まえるためタクシーが何台も停まっていた。一台に乗り込んで海まで行って欲しいと頼むと、一瞬怪訝な顔をされたものの、おじさんは何も言わずに車を走らせてくれた。
 海の見える車道まで来ると、しばらく走った辺りで車を止めてもらった。代金を支払い、小さく礼を言って降りてもしばらく、車はのろのろと走ってこちらを気にするようだった。でもすぐに、何も無い海岸によく通るエンジン音が響きわたった。黒い鉄柵に腕をのせて、しばらくはただ水平線を見つめた。餌を求める海鳥もなく、防波堤に打ち付けられる波の音が静かに漂う。
吸い寄せられるように傍に設けられた扉から斜面に出て、生温い潮風をいっぱいに吸い込んだ。潮がチクチクと鼻を、その奥を刺激した。腫れて熱を持った私の両目がまた熱く潤う。でも今度はその熱が引いていくようで。ああ、私はそのためにここに来たのかと、どこか腑に落ちていた。夜の海、柔らかい響きだと思う。拒む者の無い優しい海に寂しい一人の夜はとても自然で、無理のない組み合わせに思えた。だから、私の選択もとても自然。
足元の防波堤に、波はとめどなく溢れて消えていった。この先にあるものが、必ずしも私の終着とはならないのだろうけれど、妄想の先の結論はいつも私の救いになって辛い現実から目を背けられた。海の音に惹かれるようにしてコンクリの階段を降りていく。何もかも脱ぎ捨てた素足に、浸した水はこの季節にしては冷たいように思えた。情念が滑らかな海に砕けて泡の奥から叫びが増す。幾度も幾度も、途切れることのない営みは、真実に私自身を溶かしていた。水に触れたくるぶしの辺りから体温が徐々に落ちていく。とても心地よいことに思えた。
 潮騒に割り込む掠れた声を聞くまで私はそうしていた。振り返って映った一点にぼんやりと焦点が合う。叫びはどうやら、鉄柵の向こうからもしていたようだった。
「戻りなさい、お嬢さん」
 さっきのおじさんが缶コーヒーを二缶握って叫んでいた。彼の考えを痛切に悟って、この人は今日、もう仕事はできないんだろうなと申し訳なくなった。大人しく彼の説得に応じて、ハイヒールを拾いに戻る。足跡のせいで、乾いたコンクリに尾を引くようなか細いうねりができていて、それが少し嫌だった。
 鉄柵の方まで上がってから、振り返って海を覗き込んだ、さっきまで私のいた階段が細く海に消えていくことに急に悪寒を感じる。私を迎えたおじさんの声は喉が枯れ、海風に吹き散らされそうなくらいに細かった。
「大学で家を出た娘が丁度、お嬢さんくらいの年にね、もうすぐなるのですけど。そんな子が早まった選択をするんじゃないかと思って。差し出がましい真似をしました」
 丁寧に頭を下げるおじさんは、その低い物腰で左手の缶コーヒーを勧めた。大人しくそれを受け取った私にホッとしたような顔を向けて、自身のプルタブをゆっくり開いた。私も両手に籠めた缶コーヒーで、体を温め直す。芯から冷えていたために、彼の配慮はとても温かかった。
「お子さんは今どこにいるんですか」
「東京ですよ、アレも頭だけは良かったですから。母親の影響でしょう、ちょうど反抗期で私には口も聞いてくれませんでした」
「辛い思いをされたんですね」
「それはもう、娘を持った父親の定めというものですよ。どれだけ疎まれても玉のように育てた子ですからね、それはもう大事です」
「でも、見捨てる人だっています」
 おじさんは、驚いたように目を丸くして私の方に向き直った。寸間、気まずいような目線のやり取りがあったが、私は黙っていた。沈黙の受け取り方は人それぞれだろうけど、この時はそれが一つの問いかけとなったらしい。ふっと息を吐いておじさんは口を開いた。
「娘が高校生の時でしょうか。家に帰ってこないようになった時期がありました、それも1週間です。最初は友達の家に泊まってくると言ってね、心配はしましたが干渉されるのも嫌がる年だろうと家内とあまり聞かないでおいたんですが。それを良いことにその子の家にずっといたみたいなんです。一人暮らしの子で、あちらの親御さんに掛けようにも連絡先が分からない。状況を理解した時は、上手い隠れ家を見つけたものだと呆れの言葉が一番に口をついていました」
 苦笑しながら続けるおじさんは柔らかく崩した目元で、それでも真っ直ぐにこちらを見つめてくる。伝えたい思いを抱える人の目だった、しかも、すごく真摯で誠実な気持ちを。彼の配慮に胸が痛んだ。それでも話を続けてもらったのは、誰にもそんな人がいてくれるはずと願っていたからに他ならない。家族じゃなくても、恋人じゃなくても、私のことを大切に思ってくれる誰か。
「学校には行っていたのでそこで話をして、最後は家に引きづって帰りました。子供は親の所有物、というつもりはもちろんありません。ただ家族という関係は時に檻のように見えてしまうのも仕方がないのかと、度々に思います。1人では到底生きていけないわけですから、我慢も譲るべき時も当然にやってきます。当時の娘にもきっと必要だからと、時間を掛けて諭して。どれくらい私の言葉は届いたのでしょうね、東京へ行く時顔も見せずに家を出たのは流石に少しこたえました。あとはそれっきりです、母親とはまだ連絡しあってはいるようですが」
 口をついて言い訳めいた言葉が出ていた。私には父親の記憶が無いんです。酷いのはいつも母で、可哀想なのは私、それに母……。やっぱり私は母に自分を重ねている。可哀想なのは母、結論は最初から出ているのだから。自嘲をするかのようなこんな言葉、言ってしまうのもどうかしているけれど。
「私は、父親に幻想を抱くつもりはこれからもありません。ただ、父にも何かがあったから母と別れたのだとそう思うことにします」
 思えば、母の残した子は私一人。最初の夫が何かしらの面で特別だったのは容易に想像がつく。今更のように思い当たって驚く私に、思わず苦笑した。向き合ってこなかったのは他ならぬ私自身。これで少なくとも、母に会う理由が一つできた。その意味はまだ分からないけど、母に囚われる人生、あの人に批判された生き方からやっと変われる気がした。
 ようやくおじさんにもらった缶を開ける。舌に苦く絡む液体を転がしてゆっくりと喉に流していく。完全に冷め切る前の、最後の温もりを取り込んだ。空き缶の中身はまだ少しだけ残っていたみたいだけど、抜け殻になったその場所にはすでに夜の風が差し込んでいた。おじさんがコンビニの袋を差し出してくれたので、ありがたく使わせてもらってゴミを落とす。空き缶同士がカランとぶつかり合って冷たい音を立てた。
それからの帰り道はおじさんの厚意で町まで送ってもらった。私は固辞したけど、最後まで譲らない彼の信念めいた頑固さにはさすがに折れた。
ただ、そんな話の後で少し気恥ずかしくなって、おじさんの顔はもう見れなくなってしまった。私の父親もこのくらいの歳になるのだろうか。ルームミラー越しでもなんだか目を合わせたくなくて、始終私は俯いていたように思う。それで却って口数は多くなったからおじさんにはまた少し不審に思われてしまったかもしれない。
最後に見たあの橋はもう、纏っていた輝きも全て失って、感慨なんてどこにも浮かんでこなかった。夜空を突く2本の尖塔がただとても不気味で、それなのに見限るように向けた目だけが、それらをじっと追っていた。

 

 

 そっとアルバムを閉じて、俺はその先の話を続けた。彼女もアルバムから顔を上げて、顔を横に組んだ腕に持たせながら楽しそうに聞いてくれる。話すうち、彼女はいつしか眠ってしまっていた。寝室から持ち出した毛布を彼女の肩にかけて、再び向かいに腰を下ろす。
回想はもう止まらなかった。グラスにワインを注いで静かに口をつける。よく冷えていて、苦もなく喉を通った。そのせいもあって、いくらか飲み過ぎていたのかクラクラと意識が行ったり来たり、一つ所に留まらない。記憶を探る作業は夢に似ている。幻のようにたゆたう景色、脳に備わったもう一対の両目を必死にこらす。再会して半年と少しを経た俺たちは、町の神社を舞台に山一つ使って行われる大きな祭りに来ていた。何か弾みがついて、それから彼女と、鍵を差し違えるように噛み合わなくなった。俺はそこで初めて雅人さん、という存在を知った。
八方が人で埋まって、夜は緩やかに更けていた。屋台の列から広がる異様なまでの熱気は、夏のただ一夜を彩る花火に似て、人の狂熱を駆り立てる。ナギサは浴衣姿がよく似合っていた。丸い花が大きく散って、白の布地を彩る。何の花か聞くと、牡丹なのだと教えてくれた。立てば芍薬座れば牡丹でしょう、半ば冗談まじりでも浴衣が相当に嬉しそうで、こちらの笑みも誘われる。反面、細身の肩から下がるカメラは存在感のある黒。重そうに紫の帯のあたりで揺れている。
近頃あまり唐詩の話をしなくなった彼女は、その代わりに写真をよく撮りたがった。それも人の写真で、カメラを持つ側は映らないからもちろん、被写体は俺ということになる。
「せっかく綺麗な格好をしているんだから。写真は俺が撮るよ」
「ダメ、私に撮らせて。何かもうとにかく、あなたの写真が撮りたいの。写真を見返すときの一枚一枚が、私の愛情の証左になるから。こういう時間を形にしていくのが堪らないことに思える。私の記憶に直接、刻み込んでいくような感じがするの」
 喧騒が遠のいて、彼女の声だけがはっきりと耳に届いていた。夜が濃くなるほどに、映える牡丹は屋台提灯の煌々としたオレンジの元、その赤色を艶の気色に匂わせながら咲き誇る。浴衣に合わせてか、香水を変えたらしい彼女の華やいだ香りが更にその時間を演出する。右側の温もりが寄り添って、赤く飾られた夜はいよいよその輝きを増した。右から左に過ぎる周囲の歓声も、一段毎に高くなる。本殿から神輿が来るらしい、人の動きが波紋に広がっていく。人波の割れた先に金魚すくいの屋台を見つけて、ナギサはそこに行きたがった。応じて、そちらに足の向きを変えるも、あなたは歩みが遅いからと更に前へと急かす。早る彼女は遂に繋いだ手を離して水槽に駆け寄った。勇んで揺れ動く水面にポイを構える。
手持ち無沙汰になった右手に、水槽の金魚の撥ねた水がかかる。少量だったが、冷たさにハッとして、先ほどまでの熱気がどこか覚めていくのを感じた。水をゆったりと泳ぐ金魚がヒレを雲か煙のように軽やかに翻らせる。夢の中にいるような気分はそれでも続いていたが、胸に一片の氷を差し込まれたような心持ちになっていた。高揚としていた気分が引いていくのに、彼女への熱量すらも落ちてゆくのに気づいたのだ。急速に冷めていく熱をそれまでの記憶に紐づけられた思いで繕おうとする身に抱えた大きな矛盾に愕然とする。あれほど求めた彼女と、今隣にいるこの女性を全く別人のように感じてしまう。風化したコンクリートをみている気分に確かだった自分が崩れ去った。隣で笑う彼女を愛しく思うほどに、胸を締め付ける初恋に似た思いの発する淋しさは何なのだろう。想いは未だにあの春の日、風に吹かれる彼女の元に留まっている。自覚はある種の自傷と同じで。意識して探る心の中は彼女への思いに縋り付こうとする自分を冷酷に浮き彫りにした。日々、積み重なる彼女の些細な変化には気づけなくても、決定的な喪失感は無闇に意識されて、突き放される絶望をなす術なく受け止める。
金魚を携えてナギサが横へ戻ってきた。ポリ袋を右手にした彼女の冷えた指先が絡む。けれど今は、彼女を受け入れられないと、乾いた手をスラリと滑らせて代わりに肩からカメラを抜き取った。金魚とカメラじゃあ神輿を見るにも邪魔だろうと、彼女を促して群衆の先頭へ出た。不思議そうな顔でこちらを見返した彼女も、すぐに湧き起こった歓声に顔を戻してきらびやかな神輿にパッと表情を輝かせた。
「お神輿、神様の乗り物だよね。こんな賑やかなのが好きなのかしら」
「ハレの日は特別って、そういうことなんじゃないのかな。神様も色々と気分が変わるんだろ」
「それは、自分がそう思うからそう言ってるの」
「ただの一般論かな、ナギサは違う感想ってことを言いたいの」
彼女は答えずに沈黙を守る。その目はどこを見ているのか、顔を合わせていても決してこちらの目と合わなかった。
「ねぇ私の浴衣姿、変だったかな。前ほどこっちを向いてくれないね」
「綺麗だよ、ずっと見てた。君の方が屋台や神輿でこちらを気にしなかっただけじゃないかい」
ふうんそう、とまるで納得のいかない声で返される。こういう時に彼女は妙に聡い。だが幸か不幸か、通り過ぎていく担ぎ手の掛け声に呼応する周囲のざわめきで、彼女の独り言に近い追求を聞こえないフリで逃れられた。神輿が過ぎると、人の流れが元のように大きく膨らむ。神輿の方から流れてくる人波も相まって、視界を数十の人の顔が通り過ぎていく。そんな中でナギサが「マサトさん」と、耳に馴染まない名前を呟いた。
呼びかけに応えるように、数多い人の顔、その中で一際長身の男性がこちらに歩いてきた。俺の背に隠れるように立ったナギサの手をつかみ、無理矢理に表に引き出す。
「つまり、彼が今の本命か。分かりやすく大人しい男を選んだな」
男は、低い声で話した。努めて冷静な話し方でそこに潜む感情は窺い知れない。
「違う、彼はただの友達だよ」
 対して、一気に蒼白になったナギサは彼の手を払って一歩退く。そんな両者を見て、俺は割って入るように男の前に立った。
「あなたは、彼女とどういう関係ですか」
 男はすぐには答えずこちらをじろじろと見回した。高慢そうな高い鼻、全てを機械的に見通すような冷たい眼差し。そういったものが男の性格を、冷酷かつ厳格なものと断定して憚らなかった。
「君と渚を考えるなら、一人目の恋人と言った方が良さそうだね。最も、彼女にとっての一人目は君と言うことになるのだろうが」
言葉の意味を取りかねて俺はその場に立ちすくんだ。
「そんな勝手なことを言わないで、違うの彼は……」
言葉を待たず、夢中で彼女の手を引いて駆け出していた。熱い感覚が沸き起こって、それが血流に乗って全身を駆け巡る。持て余すくらいの熱い気持ちが更に魅かれて、人熱に飛び込んだ。目の前の幾つもの人の顔が、まるで景色のように気にならない。勢いに任せて、前へ歩む足は多少強引にでも後ろの彼女が通る道を作った。徐々に人が途切れて歩みも遅くなったところでやっとナギサの声が届いた。ハッとして振り返った彼女は蒸気して、気が昂ったようにも怒りに身を震わせるようにも見えた。
自分でも何が起こっているのかも分からなくて、どこかすがるような気持ちで彼女に目を向けた。乱れた装いを正す渚はホッと息をつくと惜しむように後ろに目をやって、そうしてからこちらに向き直って話し始めた。彼は雅人さん。昔に話したことがあったじゃない、私の憧れ続けた人だよ。
「学生時代から街によく遊びに出ていた私は何度か、隠れ家みたいな本格的なバーに入ったことがある。一緒に来るのは、外面ばかりを気にするオジサンで。当事者でいる間は、その辺りの裏側にも気が向くからあまりおいしいお酒じゃなかった。ただ、その雰囲気にはいつも強力に憧れて。その店の常連だった雅人さんのことも、ぼんやり意識するようになったの」
「転機が訪れたのは社会人になるかどうかのそんな時期ね。その日に限ってあまりに品性の無い男性に当たってしまって。酔い潰れて外に担ぎ出されるかどうかだった私を雅人さんが止めてくれたんだって。後でお店の人に話を聞いて、それを境に私から彼を求めるようになったの」
 嫉妬のような、それとは違うような。胸中をくすぐられる様な不思議な高揚が段々と全身を巡り始める。口内で糊のように凝った言葉を、解して表に出すようなそんなもどかしさで、結局は押し黙って彼女を見つめた。黒色から色を引いていったような彼女の虹彩は、白い灯りの中で照らされて暗さを帯びたグレーに加減されて常とは違う魅力を放っていた。
「でも分かって欲しいのは、そんな思いを抱くのは私の気持ちがあなたの所にはない、みたいな。そんなつもりは全然ないってこと」
 いくらか落ち着いて、状況を飲み込んだらしい彼女は弁解するように言葉を重ねた。今が不満な訳でも、彼とあなたを比べている訳でもない。ただ一つ、私を形作っている要素の中には思い出も大きな面積を占めている気がするんだよ。
「胸に残る思い出にこそ惹かれた過去の私だって、もちろん大切だから。後ろ髪を引かれて振り返ってしまうような、そんな悪い癖が時々顔を覗かせるのだと思う。ただそれはとても苦しいことでもあって、捨てるにも悲痛の予感がする。それを持て余した時ほど厄介な事もないよね。だけれどもポケットの隅で細かに震えてるそれらは結局、私の心情を語るにはただの一部分に過ぎない。全て捨ててしまって、柵を無くしてしまえば良いのだけど」
そこで言葉を止めた彼女は、それ以上を続けることもなく尻すぼみに口を閉じた。それはないだろうと、結局君はどちらが大切なんだと追求をしなければならない、そう思った。それなのに、そんなことはもはやどうでも良いという気持ちの方が強く働いた。ヤケになった訳ではない、ただその夜。彼女はとても美しかった。
ナギサは、夜露を吸いしっとりと花弁を落とす牡丹の幻惑的な光を纏っていた。形の良いその顎から水が滴り落ちるように、その瞳も唇も潤って見えて。雪の降ったような白い肌が、青く透き抜けるような白の浴衣にすうと首元から折り込まれていく。祭りの余韻に漂わした残暑の気配を気怠く思いながら、玄関のドアを開けて靴を脱ぎ始める。夜はとても静かで、一人きりで乗り越えるのにその間隔はあまりに長い。それは一人の感覚ではなかったのを知った。
暗闇で囁く彼女は満ちたような小声で話して。眠気に見舞われていた俺の耳には、染み入るように一語ずつの言葉が吸い込まれた。
「時々思い出す母の言葉があるの。一生の価値はたった一つ熱情を知れるかどうか、それだけで決まるものだって。やっと意味がわかった、私は今日まで人生を知らなかった。あなたが教えてくれたの」
あの夏の一夜は、蝉の声にも花火にも増して儚く鮮やかに、掛け替えない記憶をつづった。まさに夢のような記憶、互いの意識が混じり合って一つの感情を結ぶ。
それからしばらく経って、俺たちは北海道に向かった。彼女の思い出の地は、やがて俺にとっても忘れられない土地になった。

 

 

北海道に発つ飛行機はいつも高揚とした気分をつくる。向かう場所が良いのもあるだろうけれど。それ以上にこれから連れて行かれる土地に、子供の頃の幸せな時間を見ていたのだろう。飛行機の浮かび上がる瞬間、車では到底出せないスピードから加えられる、全身に柔らかく伝わる重圧。それは逸る気を宥めながら、その頃の母を思わせる優しさで私を抱きこむ。
そうかと思うと、もう私達は雲の上にいた。眼下には平たく伸びた雲があって、上に広がるいつもより濃いような青が無性に懐かしくなった。幼い日の私はもう、そんな景色が嬉しくて通路側にいる母や父の顔と真横の窓にキョロキョロと視線を往復させたものだった。そんな取り止めのない幾つかを思い出すと、なんだか待ちきれない。私は、北の大地があると思しき前方を、頭を傾けて懸命に覗き込む。
飛行機を降りると、いよいよここに来たのだという興奮が彼の手を引っぱる私の歩調の早さに現れた。そんな私を横目にトオルは深刻そうに口を開く。
「意外と寒いな、九月でこれならもう少し厚着をしてくるんだった」
空港を出て、いくらも歩いていないけれど、風は信じ難いほどに冷たく。シャツ一枚に紺色の薄手なジャケットを羽織っただけの彼は確かに肌寒そうだった。
「今が午前十時、陽射しもこれから照るはずだから。日中は凌げると思うけど」
「牧場観光を終えたら早めにホテルに入ろう。ナギサの言う通り、昼はともかく日が落ちてから耐えられる気がしない」
仕事を休んで金曜日の早朝から出発していた私たちの予定では、今日昼は空港近くの牧場で過ごすことになっていた。
「そうだね、明日は会って欲しい人もいるし。今日は早めに休もうか」
あの後、雅人さんに電話した。近頃会えていなかった事、だからどこかで会いたいという事。そして素直にトオルとの関係も。ある日、みんなから愛想を尽かされて。それで一人きりになってしまうのが怖くて、いつも大勢からの愛を求めた。例え誰かに捨てられても残った片方が私を慰めて、母のように惨めな涙を流さなくて済んだ。けれども、もうそれも要らない。
黒いスキニーパンツに手の平を擦り付ける彼にそっと寄り添う。牧場へは意外と単純に行けるようで、私たちはマップの案内に従ってバスに乗り込んだ。バスの中でやっと彼は落ち着いて、怒った肩の緊張を緩める。
雅人さんは電話口でじゃあ、旅行でもしようかと私を誘った。
「今度の出張で北海道に行くんだ、そこで会おう。確か君の思い出の土地だったろう。土曜の夜に落ち合う約束で」
彼の言葉に嬉しい反応を返しながらじっと考えた。トオルと一緒でも良いんじゃないかな、北海道。泊まりがけになるだろうから、どうせなら仕事を休んで三日くらい。それで彼を雅人さんに会わせようか。
本当は一人で北海道に行って、雅人さんと話す。それで良かった。だけど、近頃のトオルを見ていると細かに散らばった不安がポツポツと震えだす。妬ましい目で雅人さんを見たトオルを忘れられない。あの夜はそれを契機にして、シネマティックに急転した。それがきっと彼の考え方ではなく、万人の性に依るものでも関係はなかった。チケットの予約をその日に取って、多少強引に彼を誘った。
「これが北海道の高原、流石に規模が違うな」
トオルに習って窓の方を向くと、山を抜けて青々と広がる草原が見えてきていた。穏やかな晴れ間から日が差して。遠くの草原の縁と青空の境界が一線に重なっていた。爽やかな景色に声をあげて、トオルに向かって微笑んだ。
「いつかの約束、覚えててくれたんだ」
 彼は窓に顔を向けたままぽつり呟いた。
「北海道に来るって、一緒に話したろ」
「なに、誘ってもらえて嬉しかったの」
 いつまでもこちらを向かない彼に、ニヤリとした笑みがこぼれる。あまり素直に態度を出さない彼だからこそ、そうした行動を正直に感じて頭を撫でまわしたい愛しみを感じる。
「みんな、未来が怖いんだよ」
まだあちらに顔を向けたまま、彼は話し続けた。何かの折に彼が話した景色はここにあるのかという気がした。
「生きていくのに不安があるから、周りを見渡して。無難に過ごせるように決断を先延ばしにしている、みんな」
その後もトオルはやけに静かで、のっぺりと同じ風景がしばらく続いても、途切れることなく窓の向こうに視線を送っていた。そして牧場は、突如として現れた。
「搾乳はグッと思い切り絞って。出しやすくしてはいるけど、人の力じゃあなかなか出ないからね」
着いてすぐに、私たちは乳搾りを始めた。さすがは観光牧場、バター作り、乗馬体験、羊の餌やりなどなど、やれる事の幅が広い。牛の乳房をつかんで乳を絞り出そうとするけど、硬い弾力があって手が痺れてくる。根を上げて彼と交代する。ほっと息を吐いて撫でた牛の毛は意外なくらい固くて、猫を抱える時のしっかりと手に吸い付いてくる感覚があった。
「意外と固いな、それに体温も高い。手で絞るのなら物凄い重労働だ」
 目を丸くしながらも、生乳を着実に絞り出す。トオルは楽しそうに笑っていた。私は牛の首回りに置いた手に伝わる、意外なくらいの脈動に驚いて。そこにある一つの命に今更のように気付かされていた。この手の中にある鼓動は、この子自身のもの。別の命に触れると、いつかあった私の家族のイメージが呼び起こされた。
 絞り終えたら、殺菌の済んだ牛乳を使ってのホットミルクが出てきた。コクがまろやかに口の中を満たしていく。特有のあの甘みがうまく引き出されていた。小さい頃を思い出す、と彼も呟く。やっぱり年少には共通する思い出が多いのかとぼんやり考える。
「冬には温かい飲み物をよく飲むだろ、ウチはホットミルクがそれで。レンジでコップごと温めてはよく飲んでたよ。懐かしいな」
 両手でコップを抱える幼い彼をなんとなく想像した。小さな口元をいっぱいに広げて、こちらに笑いかける。
大切なひとを思うとき。私はいつかくる未来まで見ていたい。心地良い時間を知っているから、いつまででも続いてくれることを願う。永遠を願う気持ちは強い。その人の側にいたい気持ちは当然。好きのその続きを求めるのは、自然なことなのだろうと考えていた。
今になっても大切なこの写真、あの時の温かさすらも漂って。今いる私達すらそこに包まれる。北海道に着いた直後の牧場で、彼と私は笑って立っていた。
 うっすらとした違和感があって、テーブルに伏していた体を起こす。時計を見ると四時前で、少しの間眠ってしまっていた。反対に彼女は起きていて、アルバムから一枚、写真を取り出して眺めていた。彼女の見つめる写真は、裏返してみるまでもなく分かっている。彼女にとってその写真は特別らしい。あの出来事を語る彼女の言葉には、言外の大きな意味が滲まされている。
「つまり、その後だね」
「ええ、あなた達は会うことになっていたから。私にはとても長い夜だった」
「そうか」
その前の日すぐにホテルで休んだから、あの日はすぐに札幌を目指した。知人に挨拶してくるからと途中で別れたナギサとはその夜に合流することになる。ただ俺は、それが雅人だとは聞かされていなかった。
札幌駅に着いた俺は、ナギサに言われるがままタワーの上部を目指していた。日の落ちた市内の建物は明かりが灯り、金属製のキューブを丹念に積み上げて作り出したような建物群が先の方まで広がっている。黒い四角形がこちらに押し寄せてくるようなイメージがあって、何か息苦しかった。展望室はまばらに人がいて、ナギサがいる場所は最初よく分からなかった。電話をかけて、合流した時の二人分の影で嫌な予感は当たるんだなと諦めた。ナギサは、いつか見た男と俺を待っていた。彼女は男を岩井雅人と紹介した。
「一度、追求をしようかと悩んだ時があった。あの夏祭りの日、君はその男に俺を引き合わせているよな。裏切りなんじゃないのか、俺たちの関係に対する」
「そんなつもりない、私はいつもあなたのことを思っている。今日、雅人さんに会ってもらったのもこの間の誤解を解くため、それだけ」
「随分と長い間、君のことで悩んでいた。それも全ては君を知るためだ」
そこで一度、言葉を切ってから彼女の瞳を覗き込んで、続ける。「はっきり聞いておく、君の本当の気持ちはどこにあるんだ」
撃たれたように彼女は顔を固めて、そして視線を外すようにうつむけた。やがてまた、こちらを向き直った時には、赤い目をして、肩を震わせた。
「……どうなんだろうね、私の言う本当の理由って結局、全部後付け。本当の気持ちなんてもう、分かんないよ。最初に強く思ったら本当になるのなら。じゃあ、最初は弱かった気持ちを後から強く塗りつぶしたら。昔以上の気持ちが今にあるって気づいたらどうなるのよ」
「私は美しい思い出の中に氷漬けにされるよりも、今を、これから先を幸せに過ごしていきたいの。思いの強さに今も昔もないでしょう。人は変わり続けるものだし、そこに優劣を求めようなんて、尚更滑稽だわ」
彼女は懸命に自身を語った。その姿で、俺はようやく悟る。ナギサは始終、自分一人で会話をしているんだ。彼女に他人の心情と言う言葉はなくて、どこでも自分本意で考えるから、ズレが生じてしまう。気づいた途端、これまで心を覆っていたものが晴れて、それとは別種の憐みとすら言えるような冷えた風が吹き込んだ。
「その辺にしておいた方がいい」
 お互いに口をつぐんでしまったところで岩井雅人が声をかけた。彼はナギサの背中を軽く撫でてから、ポケットに入れていた手を出して鍵を渡した。
「ここで取っている俺の部屋の鍵だ、渚はここに。俺は透君と話してくるよ」
「どう言うこと、なんであなたたち二人が話すの。私を差し置いて」
「そんなこと、おかしいでしょう」
 彼は、ナギサの言葉など意に解す風もなくゆったりとした動作で俺に着いてくるよう仕草した。意図の読めない彼の迫力になんだか気圧されて、彼女を置いて後に従う。彼は頷き、ナギサに飲んでくるから三時間後に電話して、と言い置く。彼女は黙っていたがこっくりとうなずいた。
「えっと、岩井さん。俺たちは今からどこへ」
「雅人で良いよ、俺も透って呼ぶからさ。君は酒を飲むほうかい」
「あ、ええ。それなりに飲みます」
 それならラウンジへ行こうか。そう言ってエレベーターのボタンを押すと、彼は慣れた調子でホテルのバーラウンジへ入っていった。気後れしながら続いた先は、静かにジャズが流れる落ち着いた店だった。黒い樹脂のカウンターに落ちた影は優しく、見上げればシェードで調光したシャンデリアが天井で静止していた。
ブルゴーニュの赤ワインを適当に見繕って、彼にはそうだな、ジャック・ローズを」
聞き覚えのないカクテルで、バーテンの出したグラスがキレイな赤色をしていたから驚いた。彼にも深い色の赤ワインが出され、とりあえず飲み始める。
「なぜ彼女が俺たちをここに引き合わせたか分かるかい。君の嫉妬心を煽るためだよ、透。今それほどうまくいってはないんじゃないか、それか君の気持ちがすでに離れ始めているか。渚はそういった予感が鋭い人だから、なんとか変えようとする。自分が幸せでいる為にね」
 ジャック・ローズはとても飲みやすい、ライムとリンゴの香りに混じり合った甘さを舌に感じながら、俺は静かに彼の言葉を聞いていた。ナギサへの怒りも、雅人の訝しみも何処かへ去っていた。
「この間の夏祭り、俺と会ったことで何か君の変化を感じたんだろうな。全ての行動には理由がある、彼女はそう信じて疑わないから。俺に会った後で君の愛が深まった。そういうことなんだろう」
「俺があなたに嫉妬を感じたと思ったってことか。それにしても分からないのは北海道までわざわざ連れ回して、その目的が俺とあなたを会わせるだけってところだけど。何を考えてもそれで、俺の気持ちが戻るとはならないんじゃないか」
雅人の洞察はとにかく主観を排除して全体を俯瞰していた。自身の存在さえ、その効果と意味を正しく理解している。ただし以前のように、人間味のない冷たい人だとは思わなかった。相手を読み取るのみならず、感情の正確な扱いにも彼は長けていた。
「その辺りが君に話そうと思っていることだよ。彼女は何より、孤独を恐れる。ただし、その対処に選んだ方法がかなりまずい。彼女の母親の話は聞いてるかな」
「何度かは」
「渚はその話をよくするだろ。最も忌避する人だから、彼女とは別の人生を歩みたい。常に母親と比較している、そう言ってはいるけど。彼女は母親が好きだったんだろう、尊敬もしていた。だから母親に失望を感じて、生き方が分からなくなった」
「自己愛の強いロマンチストで、現実の直視を嫌う。彼女の性格だよ。それで常に愛情を求め続ける」
「そこまで分かっていて、何故あなたは彼女との関係を続けているんだ」
「僕か、僕はそうだな。懸命に生きる人が好きなんだよ。彼女は変わろうとしている、その行き先が知りたい。見ていたいと思うんだ」
「変わった考え方をしてる」
 素直な感想を言うなら趣味が悪い、だった。ただ、上から目線に全てを見透かしたような話でも、彼の態度には鼻につく高慢さがなかった。
「どうだろうね。こういう考え方で物事に当たる人は少ないかもしれないが、変わっているとは思わない。誰にでも、常識からはみ出した部分はあるものだよ」
「そうは思わないけど。世間で変わっていると言われる人は確かにいるし。常識的と認められる行動があるのなら、そこに従う内は変わっているとは考えない。そう言う生き方の人だって沢山いると思うね」
「じゃあ、そうだな。例えば君のことを考えてみようか。さっき渚からいくらか君のことを聞いたから、ある程度は分かるんだけど」
 やっぱり雅人は趣味が悪い。頭は良いのだろうが、モラルも何もあったもんじゃない。とはいえ、酒も回っていたから、俺は面白く聞いていて話にも二つ返事で乗った。
「どんな家庭だった、兄弟なんかもいたかな」
「話すこともない、普通の家さ。兄が一人いる、お互いそれなりにやってるよ。親にも不満なんてないし、その辺の中流家庭なんだろうね」
「世間だと、その普通が難しいんだけど。ま、幸せな家庭だったわけだ。では彼女に惹かれるようになったのは何故だい。何か特別意識するようになった理由があるとか」
 少し話すのを迷った。雅人に気持ちの悪い男だと思われたくなかった。だが、彼は何を言っても柔らかい顔で受け止めてくれるのだろうという確信も持っていた。
「横顔が好きだったんだ。カメラを構えたところや誰かと話している時なんて特に。学生時代ほど魅力的な表情は、今は感じなくなってしまったけど」
「それで、彼女への気持ちが冷めていった」
「そうはっきり感じたわけじゃない。今だって彼女の裏切りさえなければ愛情を感じていたと思うね」
「なるほど」
 軽く笑って、雅人は二杯目をバーテンに頼む。次に胸からタバコを一本抜き取り、断わってからライターに火を付け、一息に煙を吐いた。
「君が渚を選んだのは、破滅的な関係を求めていたからだ。不自由ない日常に、そんな毎日を維持するプレッシャーを感じて。何処かに終わりを望んでいた。崩れるのが怖いから、崩してしまう」
 ナギサを想っていた気持ち一つ一つを省みると、気味悪いほど一致することに身震いした。頭の良い人だ、個別の行動を一つの理屈で括るのが上手い。
「説得力のある話だね」
「あくまで一つの物の見方だ。それは君もよく分かっているだろうからあまり忠告はしないけど。酒飲みの与太話さ、テキトーに聞き流して」
 どうも酔うと舌が回っていけない、グラスを傾けながら彼は続ける。
「感情的であっても、彼女は決して感傷的な行動は取らない。多情という方面でよくまとまった性質だが、依存的に過ぎた記憶にすがることはない。芯は強い女性だから、心配はしていないんだが。ああいった矛盾をも孕むほどの危うさが、俺には応えるんだ。彼女が求めるかぎりは、側にいようと思わされる。それでもそろそろ、俺も態度を決めないとな」
 最後は独り言のように、尻すぼみに消える。ある意味では、完全に冷めているような雅人の姿勢こそ、彼女を救うのかもしれない。人に病んで、居場所を探して彷徨うナギサ。痛々しい彼女を受け止められる度量は、俺にはきっと持てない。その後は静かに彼女を待った。淡々とした気持ちで彼女に別れを告げ、次の日に早めの飛行機を取って去った。これ以上彼女と関わる気持ちは起きなかった。
 彼の声は静かな店内でよく通った。
「最後にやっと君を理解できた。でももう、俺じゃ君を受け止めきれない、それがよく分かった」
 男の移り気の薄情さは、よく理解している。それでも、一生の熱情を傾ける相手だと信じた人。そんな人にも私は見捨てられたのだと、人生の不幸にばかり考えが向いて周りも見えなくなるほど泣いた。雅人さんの優しさもその日は鬱陶しく、彼の静止を振り切ってとぼとぼとホテルに帰った。部屋には彼の荷物が一つも残っていなくて、その様子がさらに悲痛を誘った。照明を落としてからは考えるのも嫌で。打ち寄せては引く波のような様々な気持ちに、やり場なく枕を濡らした。
また一つ、私の恋は終わった。目盛りの針は振り切ってそれがいっぱいに戻されたから。その後の私は雅人さんをより深く愛することに決めた。あの人は赤が好きだから、次は新しいハイヒールを履いて行こう。赤い靴がよく似合っていると褒めてくれる彼の姿が浮かんで、気持ちはいくらか安らいだ。まだ思うべき人がいる事がとても幸せに思えた。

 

「また会うことになって驚いたでしょう」
「驚いたも何も、君のことは雅人に任せていたから。彼を信用もしていたし」
 ベランダから白い光が漏れていた。時計の針は周りきって、気づけば朝の光が差し込んでいる。そうね、雅人さんも辛抱強く私に付き合ってくれていたんだけどね。どの道、私にはもう先がなかったって事なんだよ。
全部が終わってしばらくして、私は何年かぶりに母に会いに家へ帰った。彼女は変わっていなくて、相変わらず奔放な生活を送っていた。おかげで、お互いに険のある言葉しか交わせなかった。けれど、去り際にぽつりと言った言葉は彼女の本心なのだと分かった。
「あなたは昔から、私の方ばかりを見ていた。一人親で、しかも同じ女ということもあって、それなのに生き方の見本になるような人じゃなかったのは申し訳なく思うわ。あなたから見たら私なんて母親失格だろうから、これは同じ女として言っていると思って聞いて欲しい」
「愛せる人を探しなさい。今までの切れ端を集めたようなでも、思いを重ねてようやく通じ合ったでも、きっかけはなんでも良い。ただ、その人の隣が居場所なんだと思ったその時は全てを投げ打つ覚悟でその人についていくの」
「胸に決めた、ただ一人への強い思いはきっと、その先の人生を温かく照らすでしょう。私はこの通り、拙いところが幾らもあってご覧の有り様だけど。極端な悲観に捕まらないのはあなたのお父さんへ贈った想いがあるからよ。疑う必要ない自分の思いは、一人の時にこそ信用できる、掛け替えない財産になるからね」
 玄関先で不意に言われて、思わず振り返ったけど。それ以上に母は何も語らずアパートの部屋の奥へ消えていった。
 今、彼は白に映えた陽だまりに一匹の猫とまどろんでいる。この黄金に溶け込んだ時間がいつまでも続いて欲しいと、私は永遠を願う。